モンゴル国立博物館。ウランバートル。2014年7月5日(土)。
清朝治下のモンゴル人への拷問。
叩く、鞭打つ、焼く、重い鎖で拘束するなど特殊な器具による9種類の拷問が知られていた。さらには、成長する竹の中に入れる、濡れた皮で体を包む、馬の毛の鞭で打つなどの拷問も行われた。
後金のホンタイジ(清の太宗)は元朝帝室の直系であるチャハル部のリンダン・ハーンを撃破し、1634年に元朝歴代皇帝が保持していた「国璽」を手に入れたことにより、モンゴル帝国の皇帝権、すなわち中国や中央ユーラシアへの支配権が満州族のホンタイジへ委譲されたという象徴となり、1636年にホンタイジは配下の満州人、モンゴル人、漢人から推戴されて皇帝の位に就き、大清帝国が成立した。清帝国はこれら三民族の連邦という性格を持っていた。
清朝のモンゴル支配の目標は初期においては、モンゴルの遊牧社会を漢人社会と接触させないことであった。しかし、清朝の意図をこえて、漢人勢力はモンゴル高原へ進出した。モンゴル経済は漢人商人の手に握られ、モンゴル王公から一般牧民にいたるまで、その収奪にあえぐことになった。
とくに、内モンゴルでは、モンゴル王公が共有地に漢人に開墾させて現金収入を得たため、漢人農民がモンゴル牧地に入植し、土地の荒廃と牧地の狭隘化が進行し、モンゴル人と漢人の間で民族間対立感情が生じた。清朝末期に内モンゴル各地で発生したモンゴル人の反漢蜂起は漢人農民・商人への襲撃をともなっていた。
20世紀に入ると、清朝の政権内部では漢人官僚が実権を握り、対モンゴル政策が転換されていく。とくに、外モンゴルのハルハ地方ではこれに対する反発が、王公・仏教界を中心に起こった。モンゴルは中国の省と同じになると懸念し、伝統的な社会構造と生活環境を防衛するために立ち上がろうとした。
清朝は満州人とモンゴル人が連合して漢人を統治して、チベットとイスラム教徒を保護する建前だったが、1860年代のカシュガルにおけるイスラム教徒の反乱と制圧を契機に新疆省を設置して、漢人が清の辺境統治に関与して以降、満州人は連合の相手を漢人に切り替えて、「満漢一家」と言い出した。
清朝の拷問・処刑用具と清朝の旗。
鞭。革・木製。17~20世紀。
モンゴル軍の大隊指揮官旗。1910年代。
1911年12月、外モンゴルのハルハはジェブツンダンバ8世を皇帝に推戴して清朝から独立を宣言した。ジェブツンダンバ3世から8世までは、清朝がハルハ王公の結束を恐れて転生者をチベット人から選んだ。ジェブツンダンバ8世はこれ以降ボクド・ハーンとよばれる。8世はチベット生まれであるが、チンギス・ハーンの子孫であった1世と2世の転生者であり、どの特定のハーン家出身者でもなかったため、全モンゴル民族統一にふさわしい象徴と考えられた。
内モンゴルの多くのモンゴル人も参加したが、張作霖や袁世凱などの軍閥との戦闘で、モンゴル軍は劣勢となった。日本の川島浪速が、モンゴル王公に武器弾薬を援助した第一次満蒙独立運動が開始された。
結局、1915年のキャフタ会議で外モンゴルは自治権を認められたが、中国の宗主権を認めさせられ、中華民国は庫倫(現ウランバートル)に都護使を置き、1920年には自治を撤廃させた。
ノモンハン事件(1939年)当時のモンゴル軍の機関銃。
このあたりで、常設展示室は終わる。最後にロビー横の特別展示室を見学。チンギスハーン時代の武器類が展示されていたが、ほとんどが撮影禁止であった。
鉄の矢じり。590~670年。西部ホブド県出土。突厥時代。
モンゴル帝国時代の弓矢。
モンゴル帝国時代の矢。
アルタイ・ハープ。2013年制作。アルタイ地方の音楽は古代トルコ人王国のシンボルとされた山羊と関連が深い。初期のハープの頭部は馬の頭部の形が遺物に多いが、現代に至るハープの頭部は山羊の頭部の形をしている。
山羊の角は楽器の弦の修理に使用された。ハープのデザインには遊牧民の特性が反映されている。
アルタイ・ハープ。
全体的に樺の木で造られているが、胴体の前面カバーとブリッジは柳製である。ネックの曲りがシャープで傾きは40度に達している。柄の部分は馬頭型をしている。胴は空洞で楕円形で、船または白鳥の形に似せている。
胴の背部には6頭の鹿、山羊、5頭の犬、矢をつがえる人間が時代を追って彫られていった。胴の底部に彫られた長い首の鹿は他の彫刻に比べて摩耗しておらず、埋葬直前に彫られたものと推定される。胴の外側に彫られた突厥時代のルーン文字が解読され、この楽器は古代トルコ語でヤヤリグ(メロディーの意味)とよばれ、所有者であった戦士の名はチューレであったことが分かった。
アルタイ・ハープ。ボン大学研究者スザンナ・シュルツにより復元。
特別展示室を出て、博物館を退館したのは16時45分頃で、南東に歩いてすぐのスフバートル広場と政府宮殿へ向かった。