球戯の様子 メキシコ国立人類学博物館のビデオ
世界遺産チチェン・イツァー遺跡のメインゲート。2014年11月15日(土)。本日はカンクンからバスに乗り、チチェン・イツァー遺跡経由でメリダまでの行程。
チチェン・イツァー行きのADO社のバスは前日、セントロのバスセンターで事前購入。244ペソ。バスは8時45分に発車し、3時間後に遺跡入口前商店街横の広場に到着。
チチェン・イツァー遺跡。ゲート前のマヤ先住民らしき衣装を着けた人々。 さすがに観光客が多くて、入場チケットを買う行列も長かった。
チチェン・イツァー遺跡はユカタン半島北部の密林の中にある。屈指の国際都市チチェン・イツァーは古典期後期・終末期(700~1000年)にはマヤ低地北部で最大の広域国家の中心地として繁栄をきわめた。先古典期から居住が開始され、700年頃から都市化が進み、最盛期は900~1000年頃であった。
チチェン・イツァーの支配層は、広範な遠距離交換網に参加し、米国南西部のトルコ石、メキシコ各地やグアテマラ高地の黒曜石製石器、コスタリカやパナマ産の金の装飾品を搬入した。
都市は30平方km以上の範囲に広がり、3万5千人以上の居住人口と推定される。
遺跡には二つのエリアがあり、6~8世紀頃の旧チチェン・イツァーと、9~10世紀頃のトルテカ文明の影響を受けた新チチェン・イツァーのエリアに分けられる。
ゲートから新チチェン・イツァーのエリアへ進むと、右側に有名なエル・カスティージョが見える。
新チチェン・イツァーのエリア左側にある。順路として、エル・カスティージョは後半に見学するとして、球戯場方向から時計回りに見学することにした。
エル・カスティージョ。ジャガーの神殿と球戯場の入口付近から。
球戯場。
メソ・アメリカにはピラミッドの他に、数々の球戯場がある。チチェン・イッツァの球戯場はメソ・アメリカ随一といわれる規模と美しさを誇る。長さ168m、幅70mのメソアメリカ最大の球戯場。豊作祈願の儀式といわれているが、国家儀礼や政治活動と密接に関連した重要な施設で、少人数の2チームが球戯を競った。球戯はサッカーに似たスポーツで、手を使わずに腰でボールを打ち、ゴム・ボールを壁の上部に取り付けられた輪に入れるというもの。
球戯場。ゴールの石の輪。左右の壁の上部に小さい石の輪がある。手を使わずにここにゴム・ボールを入れると得点になる
球戯場の壁。勝敗で負けた側が生贄になった。勝者という説は誤り。生贄の首が刎ねられ、噴き出した血は数匹の蛇として表現されている。
球戯場のククルカン。四方には獰猛な顔つきの蛇が配されている。トルテカ文化に影響を受けたククルカン(羽毛のある蛇の神)とされる。
ツォンパントリ。頭蓋骨の台座。戦争捕虜を生贄にしてさらしたとされる。
ツォンパントリ。壁面の髑髏は横を向いているが、角の髑髏は正面からこちらを睨んでいる。
ジャガーとワシの台座。ツォンパントリの近くに4つの階段に囲まれた台座がある。
ジャガーとワシの台座。壁面のジャガーとワシのレリーフから生贄の儀式をおこなった場所ではないかとされる。
ジャガーの神殿。球戯場の一部をなす神殿。正面にジャガー像が置かれる。内部には戦争の様子が描かれているといが、ほとんど見えなくなっている。
聖なる泉「セノーテ」。セノーテとは石灰岩質の陥没穴に地下水が溜まった、ユカタン半島独特の泉のこと。雨乞いや豊作祈願のため、財宝や生贄の人間が投げ込まれたという。スペイン征服時のスペイン人の記録によれば、吉兆を占うために、定められた日に女性を放り込んだとしている。後にアメリカの探検家エドワード・トンプソンがこの泉にもぐり、120体ほどの人骨、多くの貴金属、装飾品を発見した。
セノーテの縁にある祭壇跡。生贄がここから投げ入れられたという。
セノーテ。左奥側から。ユカタン半島最大の規模で、緑色に濁ったセノーテの深さはおよそ20mという。