山陽自動車道を見下ろす公園の駐車場に車を停め、舗装道を城へ向かった。山頂部に着くと、間もなむ石垣群が現れ、規模の壮大さに圧倒されることになった。
亀居城は慶長8年(1603)から福島正則が五年の歳月をかけ築城した。標高88メートルの山上に築かれた平山城で、規模は10万屐⊂訝呂亀の伏した形に似ていたことから亀居城と称されていた。しかしこの城は完成間もない慶長16年(1611)に幕府の圧力のため取り壊しになった。広島城の支城としては、非常に巨大な堅城であったため、それが徳川家康の疑念を招き、福島氏の没落の一因となったという。
関ヶ原の戦いの後に、安芸国を与えられた福島正則が長門国・周防国に減封された毛利氏への押さえとした。城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として亀居城に入った。
城の東側を西国街道(山陽道)が南北に通る交通の要衝であった。東側には潮入りの堀、西側には空堀を切って防御とした。
瀬戸内海を望む景勝地の経小屋山へ向かう。
経小屋山は、森林公園として整備されているため、頂上直下まで車で行くことができる。
経小屋山には、天智天皇の時代に朝鮮の白村江で大敗した大和朝廷が、国の防備強化のため監視所を設けたといわれる。山頂で監視を続ける防人達が、当時流行した一切経を本尊としたことから名づけられたとされる。
同じく瀬戸内海を望む極楽寺山を予定していたが、降雨の激しさにより延期した。
廿日市市市街地方面へ向かった。
室町時代からは桜尾城主だった藤原親実以下歴代の城主、府中の田所氏、ついで周防の大内氏、
毛利元就、さらに広島藩歴代藩主らが速谷神社を篤く崇敬して、神宝・社領を寄進し、社殿の造営と修復を行った。
藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与えたが、尼子氏と大内氏の勢力争いにより藤原氏最後の代の興藤が滅んで、この地は大内氏のものとなり、その大内氏から重臣であった陶氏に移り、さらに厳島合戦で陶氏に勝利した毛利氏領となった。
毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。また、寺内には、藤原(友田)興藤、桂元澄、毛利元清夫婦の墓や陶晴賢の首塚などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。
洞雲寺は桜尾城址の北、現在のJR廿日市駅の北にある。一帯は道路整備工事が行われていた。
厳島神社・速谷神社は佐伯氏の氏神であり、佐伯氏が厳島神主家を世襲した。中でも、平清盛の庇護のもと、厳島神主佐伯景弘は安芸守に就任した。佐伯氏は承久の乱で後鳥羽上皇方に与したため没落し、安芸守護に藤原(大江姓)親実が補任され、以後、藤原氏が厳島神主家となった。毛利氏支配の時代以降は復権した佐伯氏一族が歴代当主となり、現代に続いている。
陶晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。墓石は三段の花崗岩製と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が厚くなるなど、各部に形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。
室町時代には武田氏の武田信賢が厳島神主家の社領に侵入し、嘉吉元(1441)年には桜尾城も包囲されるに至ったが撃退した。その後は大内氏の傘下に入ったが、戦国時代になると家督を巡って一族で争いが起き、長い内紛の結果、友田興藤が家督を継承し、桜尾城を新たな居城とした。その後、大内氏が家督に介入してきたため、興藤は尼子氏と通じて天文10(1541)年に大内氏を離反したが、逆に大内義隆に攻撃され桜尾城は落城、興藤は自害した。友田興藤自害後は、大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。
天文24(1555)年になると、当地は毛利元就の支配下に入り、桂元澄が城主として入城、厳島の戦いでの後方支援を担った。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われた。元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になる。豊臣秀吉が九州征伐のため、九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣している。関ヶ原の戦いの後、桜尾城は存在価値を失い、廃城となった。
宮島の対岸にあり、瀬戸内海に面した複郭式の海城で、築城当時は三方を海に囲まれていた。城地は桂氏の末裔である桂太郎の寄附により桂公園として整備されたため、遺構は見事に消滅している。
17時近くになり、雨天で暗くなってきたので、17時開店の八昌五日市店へ。
広島市近辺に道の駅はない。ネットを見ていて気が付いた国道2号バイパスの佐方SAへ行き、車中泊。