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広島県大竹市・廿日市市 亀居城跡 経小屋山 速谷神社 洞雲寺 八昌五日市店

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亀居城(かめいじょう)跡。大竹市小方。平成25年10月23日(水)。三倉岳の登山を終わり、海方面へ向かった。これからは基本的に海岸部中心となる。天気予報は今日から3日程度連続の雨。
山陽自動車道を見下ろす公園の駐車場に車を停め、舗装道を城へ向かった。山頂部に着くと、間もなむ石垣群が現れ、規模の壮大さに圧倒されることになった。
亀居城は慶長8年(1603)から福島正則が五年の歳月をかけ築城した。標高88メートルの山上に築かれた平山城で、規模は10万屐⊂訝呂亀の伏した形に似ていたことから亀居城と称されていた。しかしこの城は完成間もない慶長16年(1611)に幕府の圧力のため取り壊しになった。広島城の支城としては、非常に巨大な堅城であったため、それが徳川家康の疑念を招き、福島氏の没落の一因となったという。

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亀居城跡。本丸下。織豊期の石垣は西洋の要塞風に緻密に組まれている。竹田城にひけをとらない。
関ヶ原の戦いの後に、安芸国を与えられた福島正則が長門国・周防国に減封された毛利氏への押さえとした。城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として亀居城に入った。

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亀居城跡。本丸虎口。

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亀居城跡。本丸からの眺望。北東に厳島があり、その西南にこの城がある。厳島と本土を分ける大野瀬戸を見下ろす。
城の東側を西国街道(山陽道)が南北に通る交通の要衝であった。東側には潮入りの堀、西側には空堀を切って防御とした。

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亀居城跡。本丸からの眺望。東側には曲輪が続き、上下をつなぐ通路も虎口で防御されている。

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亀居城跡。南北に長い山頂部の南から本丸、二の丸、三の丸、有の丸、なしの丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸など11の曲輪から構成され、各曲輪の東側(海側)には堅固な石垣が構築されている。
瀬戸内海を望む景勝地の経小屋山へ向かう。

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経小屋山。山頂下の展望台からの展望。廿日市市 大野。標高596メートル。宮島の弥山よりも61メートル高い経小屋山の展望台からは、宮島と安芸灘の多島美が壮大に広がり、波光きらめく瀬戸内海と、墨絵のような美しい濃淡を見せる島々の華麗なパノラマビューが楽しめるはずだが、この頃から雨が激しく降りはじめ、淡いシルエットのような風景だった。
経小屋山は、森林公園として整備されているため、頂上直下まで車で行くことができる。

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経小屋山。山頂。駐車場から5分ほどで到着。
経小屋山には、天智天皇の時代に朝鮮の白村江で大敗した大和朝廷が、国の防備強化のため監視所を設けたといわれる。山頂で監視を続ける防人達が、当時流行した一切経を本尊としたことから名づけられたとされる。
同じく瀬戸内海を望む極楽寺山を予定していたが、降雨の激しさにより延期した。
廿日市市市街地方面へ向かった。

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速谷神社。安芸国総鎮守の神社。祭神は安芸国造と伝わる飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)。1700年あまりの歴史を持ち、かつては厳島神社よりも格の高い神社であった。古くは安芸国の一宮であったとされるが、厳島神社が平氏に崇敬されるにつれて当社は厳島神社の摂社に数えられ、安芸国二宮と称されるようになった
室町時代からは桜尾城主だった藤原親実以下歴代の城主、府中の田所氏、ついで周防の大内氏、
毛利元就、さらに広島藩歴代藩主らが速谷神社を篤く崇敬して、神宝・社領を寄進し、社殿の造営と修復を行った。

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洞雲寺(とううんじ)。応龍山洞雲寺は、長享元年(1487)陶氏の菩提寺である山口県・龍文寺の僧金岡用兼(きんこうようけん)を開祖とし、当時桜尾城主で厳島神社の神主でもあった厳島神主藤原教親・宗親父子により、その菩提寺として創建された曹洞宗の禅院である。金岡禅師は当時、名僧として名高く、本山永平寺の諸伽藍の復興をなしとげ、また、阿波国守護細川成之の帰依を受け、同国の丈六寺と桂林寺も管轄していた。
藤原氏は宗親のあとも代々菩提寺として洞雲寺に領地を与えたが、尼子氏と大内氏の勢力争いにより藤原氏最後の代の興藤が滅んで、この地は大内氏のものとなり、その大内氏から重臣であった陶氏に移り、さらに厳島合戦で陶氏に勝利した毛利氏領となった。
毛利氏の時代には、重臣の桂元澄、ついで元就の四男元清が桜尾城代として洞雲寺を菩提寺と同じように保護したため、寺には40通に及ぶ戦国期の貴重な古文書(県重文)が残されている。また、寺内には、藤原(友田)興藤、桂元澄、毛利元清夫婦の墓や陶晴賢の首塚などがあり、戦国期の興亡の姿をいまに語りかけている。
洞雲寺は桜尾城址の北、現在のJR廿日市駅の北にある。一帯は道路整備工事が行われていた。

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友田興藤の墓。中世藤原氏は厳島神主家として桜尾城に居城し、佐伯郡を中心とした厳島社領を支配した。友田興藤は藤原神主家の一族である。永正15 (1518)年、大内義隆が神領を直接支配したことに反抗し、実力で神主になり、度々、桜尾城を中心に攻防をくり返した。天文10(1541)年、尼子氏の安芸侵攻時に武田氏とともに呼応したものの、大内氏の攻撃に抗しきれず、城に火を懸けて自刃し、300余年の藤原氏の支配時代は終わった。友田興藤の墓は、総高199.5cmの花崗岩製の宝篋印塔である。
厳島神社・速谷神社は佐伯氏の氏神であり、佐伯氏が厳島神主家を世襲した。中でも、平清盛の庇護のもと、厳島神主佐伯景弘は安芸守に就任した。佐伯氏は承久の乱で後鳥羽上皇方に与したため没落し、安芸守護に藤原(大江姓)親実が補任され、以後、藤原氏が厳島神主家となった。毛利氏支配の時代以降は復権した佐伯氏一族が歴代当主となり、現代に続いている。

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友田興藤の墓。塔身部の正面格狭間の中に「興藤」、その横に「天文九年庚子(かのえね)八月日」と刻んでいる。興藤の没年は天文10年4目6日といわれるので、この印塔は興藤が在世中に造立した逆修塔であろう。造りに無骨さが感じられるが、力量感のある宝篋印塔である。紀年銘もあり、室町時代末期の標準的な宝篋印塔として重要である。

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陶晴賢の墓。陶晴賢は大内氏の重臣であったが、天文20(1551)年8月、大内義隆父子を襲い自刃させ、大内氏の領国を制圧した。弘治元(1555)年10月の「厳島合戦」で、水軍に勝る毛利元就の奇襲戦に敗れ、厳島で自刃し、桜尾城において首実検の後、この寺に葬られた。
陶晴賢の墓は最初は首塚であったが、後に現在のような宝篋印塔を墓石としている。墓石は三段の花崗岩製と安山岩製の基壇の上に立ち、印塔自体は軟質な安山岩製である。総高129cmで、この宝篋印塔は基礎部と塔身部がつながり、笠部も軒が厚くなるなど、各部に形式の退化したところや、また風化した跡が認められる。

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桜尾城跡。承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を築いた。藤原氏が下向して桜尾城に入城し、直接支配するようになったのは南北朝時代中頃とされる。
室町時代には武田氏の武田信賢が厳島神主家の社領に侵入し、嘉吉元(1441)年には桜尾城も包囲されるに至ったが撃退した。その後は大内氏の傘下に入ったが、戦国時代になると家督を巡って一族で争いが起き、長い内紛の結果、友田興藤が家督を継承し、桜尾城を新たな居城とした。その後、大内氏が家督に介入してきたため、興藤は尼子氏と通じて天文10(1541)年に大内氏を離反したが、逆に大内義隆に攻撃され桜尾城は落城、興藤は自害した。友田興藤自害後は、大内家臣の杉隆真が佐伯景教と名乗って新たな当主となった。
天文24(1555)年になると、当地は毛利元就の支配下に入り、桂元澄が城主として入城、厳島の戦いでの後方支援を担った。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われた。元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になる。豊臣秀吉が九州征伐のため、九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣している。関ヶ原の戦いの後、桜尾城は存在価値を失い、廃城となった。
宮島の対岸にあり、瀬戸内海に面した複郭式の海城で、築城当時は三方を海に囲まれていた。城地は桂氏の末裔である桂太郎の寄附により桂公園として整備されたため、遺構は見事に消滅している。
17時近くになり、雨天で暗くなってきたので、17時開店の八昌五日市店へ。

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広島焼。八昌五日市店。広島市佐伯区五日市。豚玉780円。食べログなどで評価が高かったので入店。広島焼は30年前にカキ入りのを食べて以来だが、期待しすぎたのか、イマイチだった。3日後に安芸区の大樹で食べたものの方が美味かった。もっと言えば、焼きそばを入れるのはお好み焼きとしては、異質のものになる。大阪十三のネギ焼きの山本が一番美味い。広島市中心部の広島焼店には駐車場がない店が多く、郊外店を選んだ。
広島市近辺に道の駅はない。ネットを見ていて気が付いた国道2号バイパスの佐方SAへ行き、車中泊。

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