頼山陽史跡資料館。正面ロビーと中庭。平成25年10月24日(木)。廿日市市の2号バイパス佐方SAで起床。台風の影響で23日から3日間雨が続き、当日が最も雨が激しかった。古墳や山城などの屋外見学は無理なので、室内見学を中心とした。
まず、広島市の中心地中区袋町にある頼山陽史跡資料館へ向かった。9時50分頃、資料館の前を通過したが、駐車場が分からない。一方通行で戻れないので、受付へ駆け込み、東隣にあることを確認し、アクセスし直した。当日は何故か、館内の特別展示室が停電しており、受付の女性は入館料は結構です、常設展示をご覧くださいとのこと。数十分後に回復し特別展示も見学したので料金を支払おうとしたが、結構ですといわれた。
頼山陽史跡資料館は、頼山陽および頼家ゆかりの資料を展示した博物館で、1995年に旧山陽記念館跡地に山陽が脱藩後幽閉された「頼山陽居室」(国史跡)が敷地内にある。
事前のイメージとは違って、現代的な建物に驚いた。バブルの余韻が残っていた時期とはいえ、郷土の偉人を顕彰しようとする意志がうかがわれる。正面坪庭などに植栽された青桐が印象的だった。
特別展の「菅茶山と頼山陽」には、県立歴史博物館所蔵の黄葉夕陽文庫の文書などの原本が多数出品されており、解説を読むと二人の生涯の梗概が理解できた。
山陽は謹慎を解かれたのち、文化6(1809)年に父の友人であった儒学者の菅茶山から招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任したが、その境遇に満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年に京都へ出奔した。
まず、広島市の中心地中区袋町にある頼山陽史跡資料館へ向かった。9時50分頃、資料館の前を通過したが、駐車場が分からない。一方通行で戻れないので、受付へ駆け込み、東隣にあることを確認し、アクセスし直した。当日は何故か、館内の特別展示室が停電しており、受付の女性は入館料は結構です、常設展示をご覧くださいとのこと。数十分後に回復し特別展示も見学したので料金を支払おうとしたが、結構ですといわれた。
頼山陽史跡資料館は、頼山陽および頼家ゆかりの資料を展示した博物館で、1995年に旧山陽記念館跡地に山陽が脱藩後幽閉された「頼山陽居室」(国史跡)が敷地内にある。
事前のイメージとは違って、現代的な建物に驚いた。バブルの余韻が残っていた時期とはいえ、郷土の偉人を顕彰しようとする意志がうかがわれる。正面坪庭などに植栽された青桐が印象的だった。
特別展の「菅茶山と頼山陽」には、県立歴史博物館所蔵の黄葉夕陽文庫の文書などの原本が多数出品されており、解説を読むと二人の生涯の梗概が理解できた。
山陽は謹慎を解かれたのち、文化6(1809)年に父の友人であった儒学者の菅茶山から招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任したが、その境遇に満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年に京都へ出奔した。
頼山陽居室。国史跡。頼山陽(安永9(1781)~ 天保3(1832)年)は,江戸時代後期の日本を代表する漢学者で,歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍した。
歴史の分野では,没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり,幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、特に昭和戦前期まで人口に膾炙した。『日本外史』が完成すると、出版上の条件を有利にする事情もあり、文政10(1827)年に老中・松平定信に献上された。
文学の分野では,数多くの詩文を作り,川中島の合戦を題材にした「鞭声粛粛夜河を過る~」の詩などは幅広く愛誦されている。
この場所は父春水が広島藩から拝領した頼家の屋敷があり、一帯は,江戸時代には「杉ノ木小路」と呼ばれた武家屋敷地であった。
山陽はここで11歳から30歳までの青少年時代を過ごしたが,21歳の時に脱藩騒動を起こし,屋敷内の一室に幽閉され、幽閉期間は3年にも及んだが,山陽はその間,代表作の歴史書『日本外史』の執筆に着手した。居室は被爆によって焼失したが、昭和33年に広島県が復原した。
歴史の分野では,没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり,幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、特に昭和戦前期まで人口に膾炙した。『日本外史』が完成すると、出版上の条件を有利にする事情もあり、文政10(1827)年に老中・松平定信に献上された。
文学の分野では,数多くの詩文を作り,川中島の合戦を題材にした「鞭声粛粛夜河を過る~」の詩などは幅広く愛誦されている。
この場所は父春水が広島藩から拝領した頼家の屋敷があり、一帯は,江戸時代には「杉ノ木小路」と呼ばれた武家屋敷地であった。
山陽はここで11歳から30歳までの青少年時代を過ごしたが,21歳の時に脱藩騒動を起こし,屋敷内の一室に幽閉され、幽閉期間は3年にも及んだが,山陽はその間,代表作の歴史書『日本外史』の執筆に着手した。居室は被爆によって焼失したが、昭和33年に広島県が復原した。
資料館の茶室と文人庭。頼山陽をはじめとした江戸時代の文人たちは,梅・竹・桐・芭蕉など,中国的な趣味に合う植物を取り入れた庭を楽しんだといわれています。この庭は,造園家で元大阪芸術大学学長中根金作の指導により,資料館の建設に際して整備された。中根金作は,足立美術館(島根県安来市)などの作庭も手掛けている。
頼山陽史跡資料館。正門横の石柱。「頼山陽先生日本外史著述宅趾」と記されたこの石柱は,昭和2年(1927)に建てられましたが,被爆によって折れてしまった。石柱は,戦後復原されましたが,現在も被爆の爪痕が生々しく残っている。
昭和10年当地に山陽記念館が建設されたが,原爆によって大破し,収蔵品の大半は焼失した。戦後建物は修復され,社会教育施設などに利用されていたが,老朽化が著しく危険な状態になったため,平成7年に広島県が頼山陽史跡資料館として建て替え整備された。
西隣にある旧日本銀行広島支店は堅牢に造られていたため、爆心地からわずか380mという近距離であったが被災に耐え、被爆建物の中でも抜群に保存状態がよいという。その陰になったため、旧山陽記念館は消滅を免れたという。
旧日本銀行広島支店は原爆被災遺構として一般公開されており、芸術文化活動拠点としても利用されているので、一階ギャラリーに入り、見学した。
12時30分頃になり、宇品の広島市郷土資料館へ向かった。
昭和10年当地に山陽記念館が建設されたが,原爆によって大破し,収蔵品の大半は焼失した。戦後建物は修復され,社会教育施設などに利用されていたが,老朽化が著しく危険な状態になったため,平成7年に広島県が頼山陽史跡資料館として建て替え整備された。
西隣にある旧日本銀行広島支店は堅牢に造られていたため、爆心地からわずか380mという近距離であったが被災に耐え、被爆建物の中でも抜群に保存状態がよいという。その陰になったため、旧山陽記念館は消滅を免れたという。
旧日本銀行広島支店は原爆被災遺構として一般公開されており、芸術文化活動拠点としても利用されているので、一階ギャラリーに入り、見学した。
12時30分頃になり、宇品の広島市郷土資料館へ向かった。
広島市郷土資料館。資料館の建物は、明治44(1911)年に建てられた宇品陸軍糧秣支廠の施設の一つである缶詰工場であった。明治27(1894)年の日清戦争以後、広島には陸軍の施設が多数造られた。陸軍中央糧秣廠宇品支廠が広島市宇品海岸に設置されたのち、明治44年に缶詰工場と新庁舎などを新たに宇品御幸通西側に建設し、移転した。
この缶詰工場では、牛肉缶詰が生産され、特に大正12年の関東大震災で東京の陸軍糧秣本廠が被害を受けて以後は、牛肉缶詰製造はもっぱら宇品で行われましたこの缶詰工場では牛肉缶詰が製造され、昭和19年末まで操業を続けた。
広島に原子爆弾が投下された際には、爆風によって屋根を支える鋼鉄製の垂木が内側に折れ曲がるなどの被害を受けたが、建物自体の倒壊は免れた。
この建物は市内に残る数少ない明治期の建築物で、かつ建築技術や意匠が優れているなどの点から、昭和60年4月に広島市重要有形文化財に指定された。
宇品港建設に使用された服部長七による人造石。明治13年広島県令となった千田貞暁は、広島をより発展させるためには、大型の船が入港できる港を建設する必要があると考え、沖に浮かぶ宇品島までを地続きにして港をつくる計画を立て、明治17年に築港工事を始めた。工事は、難工事となり、明治22年約5年もの工期と当初の予定を大きく上回る莫大な費用をかけて完成した。工事においては経費節減のため、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等で人造石による工法を確立していた服部長七による人造石工法が採用された。
千田貞暁は、工事計画が不十分であったとして責任を取らされ処分され半ば左遷された。
宇品港が明治27年の日清戦争以後、軍用港として重要な役割を果たすにつれ、千田貞暁は再評価され、大正4年に宇品の地に銅像が建てられた。
この缶詰工場では、牛肉缶詰が生産され、特に大正12年の関東大震災で東京の陸軍糧秣本廠が被害を受けて以後は、牛肉缶詰製造はもっぱら宇品で行われましたこの缶詰工場では牛肉缶詰が製造され、昭和19年末まで操業を続けた。
広島に原子爆弾が投下された際には、爆風によって屋根を支える鋼鉄製の垂木が内側に折れ曲がるなどの被害を受けたが、建物自体の倒壊は免れた。
この建物は市内に残る数少ない明治期の建築物で、かつ建築技術や意匠が優れているなどの点から、昭和60年4月に広島市重要有形文化財に指定された。
宇品港建設に使用された服部長七による人造石。明治13年広島県令となった千田貞暁は、広島をより発展させるためには、大型の船が入港できる港を建設する必要があると考え、沖に浮かぶ宇品島までを地続きにして港をつくる計画を立て、明治17年に築港工事を始めた。工事は、難工事となり、明治22年約5年もの工期と当初の予定を大きく上回る莫大な費用をかけて完成した。工事においては経費節減のため、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等で人造石による工法を確立していた服部長七による人造石工法が採用された。
千田貞暁は、工事計画が不十分であったとして責任を取らされ処分され半ば左遷された。
宇品港が明治27年の日清戦争以後、軍用港として重要な役割を果たすにつれ、千田貞暁は再評価され、大正4年に宇品の地に銅像が建てられた。
服部長七(1840~ 1919)は、愛知県碧南市の左官職人の家に生まれた土木技術者で、既存のたたきを改良し自ら編み出した人造石工法(長七たたき)により治水・用水分野の工事において業績を挙げた。広島県宇品港の岸壁工事完成の功績などにより緑綬褒章が授与されている
人造石工法とは、「たたき」を大規模な土木建造物においても使用できるよう、服部長七が改良したもので、消石灰に多量の風化花崗岩を混ぜて水練りしたものに砂を加えた上で石と交互に積み上げ突き固めるものであった。輸入セメントは当時非常に高価であり、一般の工事に使用できる状況ではなかったが、服部の人造石工法によりコンクリートと同等の構造物を築くことが可能となった。
人造石工法とは、「たたき」を大規模な土木建造物においても使用できるよう、服部長七が改良したもので、消石灰に多量の風化花崗岩を混ぜて水練りしたものに砂を加えた上で石と交互に積み上げ突き固めるものであった。輸入セメントは当時非常に高価であり、一般の工事に使用できる状況ではなかったが、服部の人造石工法によりコンクリートと同等の構造物を築くことが可能となった。
広島平和記念資料館。高校の修学旅行以来の見学。外国人が訪れる観光地の第一位の場所なので、見学することにした。15時頃に資料館近くに着き、駐車場を探すが、道路を隔てた南にある無料スペースに空きがないようだったので、仕方なく1劼曚瀕イ譴織灰ぅ鵐僉璽ングへ入庫。雨の中、資料館へ向かうと、玄関が見えないくらい生徒を乗せたバスが来ていた。欧米人も多数来館していて人気の高さがうかがわれる。
東館。3階からドーム模型を見下ろす。
本館。被災者の状況を示すジオラマ。本館では遺品や被爆資料が展示されている。本館の最初のコーナーがこのジオラマ。撤去するかどうかで話題になっている。実際はもっとむごたらしかったのに、何を言っているんだろう。
本館。中学生の残したツメと皮膚。爆心地から600mで被災。県立広島二中の手島範明さんは、建物疎開作業現場で被爆した。全身の皮膚が垂れ下がるほどの大火傷を負い、友人に助けられて自宅に戻った。喉の渇きに耐えかねか、ツメのはがれた指先から出るウミを吸ったという。苦しみながら、翌8月7日死亡した。母親がツメと皮膚の一部を出征中の父親への形見として残した。
真剣に見ている外国人個人客は多い。
16時30分頃、館を出て、原爆ドーム方面へ向かった。平和記念公園には10年余り前に母親と訪れた平和の灯前に行ったが、ドームはやや遠くて行かなかった。
偶然、元安橋手前に観光案内所を見つけ、女性職員に、つけ麺と汁なし担担麺を食べたいのだがと、ばかな質問をすると、この付近にありますよ、と親切に教えてくれた。
真剣に見ている外国人個人客は多い。
16時30分頃、館を出て、原爆ドーム方面へ向かった。平和記念公園には10年余り前に母親と訪れた平和の灯前に行ったが、ドームはやや遠くて行かなかった。
偶然、元安橋手前に観光案内所を見つけ、女性職員に、つけ麺と汁なし担担麺を食べたいのだがと、ばかな質問をすると、この付近にありますよ、と親切に教えてくれた。
原爆ドーム。保存状態は良かった。外国人が多い。意外と大きいので、全景写真をとるのは、かなり離れねばならない。
つけ麺。藤原ラーメン。並780円。美味い。広島焼よりも。「ばくだん屋」のつけ麺と同じものだという。辛さを選べるので、中辛を選んだ。
汁なし担担麺。キング軒。並580円。中電病院に近い。貰ったガイドマップに書いてあるので、すぐに分かった。勤め人が仕事前に来るようで、客の回転は早い。
麺、肉、ネギ、山椒を30回以上混ぜて食べることになっている。陳麻婆豆腐店の麻婆豆腐も山椒が辛かった、この担担麺では山椒と他の具材の味が絡まって、今までにない味覚の体験をした。
麺を2店はしごしたが、量的にはそれほどでもない。
大雨の闇の中を駐車場まで戻り、定宿になった佐方SAへ戻る。バイパス近くにセブンイレブンのセブンスポットがあり、無料でネットができるので便利だった。
翌日も雨なので、呉の大和ミュージアムへ。
麺、肉、ネギ、山椒を30回以上混ぜて食べることになっている。陳麻婆豆腐店の麻婆豆腐も山椒が辛かった、この担担麺では山椒と他の具材の味が絡まって、今までにない味覚の体験をした。
麺を2店はしごしたが、量的にはそれほどでもない。
大雨の闇の中を駐車場まで戻り、定宿になった佐方SAへ戻る。バイパス近くにセブンイレブンのセブンスポットがあり、無料でネットができるので便利だった。
翌日も雨なので、呉の大和ミュージアムへ。