まず、広島市の中心地中区袋町にある頼山陽史跡資料館へ向かった。9時50分頃、資料館の前を通過したが、駐車場が分からない。一方通行で戻れないので、受付へ駆け込み、東隣にあることを確認し、アクセスし直した。当日は何故か、館内の特別展示室が停電しており、受付の女性は入館料は結構です、常設展示をご覧くださいとのこと。数十分後に回復し特別展示も見学したので料金を支払おうとしたが、結構ですといわれた。
頼山陽史跡資料館は、頼山陽および頼家ゆかりの資料を展示した博物館で、1995年に旧山陽記念館跡地に山陽が脱藩後幽閉された「頼山陽居室」(国史跡)が敷地内にある。
事前のイメージとは違って、現代的な建物に驚いた。バブルの余韻が残っていた時期とはいえ、郷土の偉人を顕彰しようとする意志がうかがわれる。正面坪庭などに植栽された青桐が印象的だった。
特別展の「菅茶山と頼山陽」には、県立歴史博物館所蔵の黄葉夕陽文庫の文書などの原本が多数出品されており、解説を読むと二人の生涯の梗概が理解できた。
山陽は謹慎を解かれたのち、文化6(1809)年に父の友人であった儒学者の菅茶山から招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任したが、その境遇に満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年に京都へ出奔した。
歴史の分野では,没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり,幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、特に昭和戦前期まで人口に膾炙した。『日本外史』が完成すると、出版上の条件を有利にする事情もあり、文政10(1827)年に老中・松平定信に献上された。
文学の分野では,数多くの詩文を作り,川中島の合戦を題材にした「鞭声粛粛夜河を過る~」の詩などは幅広く愛誦されている。
この場所は父春水が広島藩から拝領した頼家の屋敷があり、一帯は,江戸時代には「杉ノ木小路」と呼ばれた武家屋敷地であった。
山陽はここで11歳から30歳までの青少年時代を過ごしたが,21歳の時に脱藩騒動を起こし,屋敷内の一室に幽閉され、幽閉期間は3年にも及んだが,山陽はその間,代表作の歴史書『日本外史』の執筆に着手した。居室は被爆によって焼失したが、昭和33年に広島県が復原した。
昭和10年当地に山陽記念館が建設されたが,原爆によって大破し,収蔵品の大半は焼失した。戦後建物は修復され,社会教育施設などに利用されていたが,老朽化が著しく危険な状態になったため,平成7年に広島県が頼山陽史跡資料館として建て替え整備された。
西隣にある旧日本銀行広島支店は堅牢に造られていたため、爆心地からわずか380mという近距離であったが被災に耐え、被爆建物の中でも抜群に保存状態がよいという。その陰になったため、旧山陽記念館は消滅を免れたという。
旧日本銀行広島支店は原爆被災遺構として一般公開されており、芸術文化活動拠点としても利用されているので、一階ギャラリーに入り、見学した。
12時30分頃になり、宇品の広島市郷土資料館へ向かった。
この缶詰工場では、牛肉缶詰が生産され、特に大正12年の関東大震災で東京の陸軍糧秣本廠が被害を受けて以後は、牛肉缶詰製造はもっぱら宇品で行われましたこの缶詰工場では牛肉缶詰が製造され、昭和19年末まで操業を続けた。
広島に原子爆弾が投下された際には、爆風によって屋根を支える鋼鉄製の垂木が内側に折れ曲がるなどの被害を受けたが、建物自体の倒壊は免れた。
この建物は市内に残る数少ない明治期の建築物で、かつ建築技術や意匠が優れているなどの点から、昭和60年4月に広島市重要有形文化財に指定された。
宇品港建設に使用された服部長七による人造石。明治13年広島県令となった千田貞暁は、広島をより発展させるためには、大型の船が入港できる港を建設する必要があると考え、沖に浮かぶ宇品島までを地続きにして港をつくる計画を立て、明治17年に築港工事を始めた。工事は、難工事となり、明治22年約5年もの工期と当初の予定を大きく上回る莫大な費用をかけて完成した。工事においては経費節減のため、備前岡山の吉備開墾社の干拓堤防等で人造石による工法を確立していた服部長七による人造石工法が採用された。
千田貞暁は、工事計画が不十分であったとして責任を取らされ処分され半ば左遷された。
宇品港が明治27年の日清戦争以後、軍用港として重要な役割を果たすにつれ、千田貞暁は再評価され、大正4年に宇品の地に銅像が建てられた。
人造石工法とは、「たたき」を大規模な土木建造物においても使用できるよう、服部長七が改良したもので、消石灰に多量の風化花崗岩を混ぜて水練りしたものに砂を加えた上で石と交互に積み上げ突き固めるものであった。輸入セメントは当時非常に高価であり、一般の工事に使用できる状況ではなかったが、服部の人造石工法によりコンクリートと同等の構造物を築くことが可能となった。
真剣に見ている外国人個人客は多い。
16時30分頃、館を出て、原爆ドーム方面へ向かった。平和記念公園には10年余り前に母親と訪れた平和の灯前に行ったが、ドームはやや遠くて行かなかった。
偶然、元安橋手前に観光案内所を見つけ、女性職員に、つけ麺と汁なし担担麺を食べたいのだがと、ばかな質問をすると、この付近にありますよ、と親切に教えてくれた。
麺、肉、ネギ、山椒を30回以上混ぜて食べることになっている。陳麻婆豆腐店の麻婆豆腐も山椒が辛かった、この担担麺では山椒と他の具材の味が絡まって、今までにない味覚の体験をした。
麺を2店はしごしたが、量的にはそれほどでもない。
大雨の闇の中を駐車場まで戻り、定宿になった佐方SAへ戻る。バイパス近くにセブンイレブンのセブンスポットがあり、無料でネットができるので便利だった。
翌日も雨なので、呉の大和ミュージアムへ。