大和ミュージアムは呉市海事歴史科学館が正式名称なので、呉の歴史や軍艦の工学的説明が多い。せっかくなので、新発見による艦橋復元展も併せて見学。隈なく見たので、館を出たのは、14時30分頃になった。その後、海上自衛隊呉史料館も見学。
なお、呉には2日後の日曜日に護衛艦一般公開、旧呉鎮守府庁舎公開に合わせ再訪した。
大和建艦時の技術が戦後日本の産業発展に貢献したということが強調されていた。新幹線、ニコンの光学技術(測距儀)、自動車生産における科学的管理法など。
呉海軍工廠の支部としておかれた広支廠が広海軍工廠として独立し、第11海軍航空廠となり、海軍航空機の開発と生産に貢献したことを知った。
呉海軍工廠の支部としておかれた広支廠が広海軍工廠として独立し、第11海軍航空廠となり、海軍航空機の開発と生産に貢献したことを知った。
巡洋戦艦「金剛」搭載のヤーロー式ボイラー は、近代化産業遺産、重要科学技術史資料、建築設備技術遺産に認定されている。呉海軍工廠が設立され、欧米の技術を習得した時代を象徴する産業遺産である。
「金剛」はイギリスのヴィッカース社において大正2(1913)年巡洋戦艦として竣工した。艦には重油と石炭混焼の36基のヤーロー式ボイラーが搭載されていました。ヤーロー式ボイラーは、イギリスのヤーロー社が開発したもので、20世紀初頭の世界の代表的な艦艇用ボイラーであった。
昭和3年からの横須賀海軍工廠における近代化改装の際に撤去され、戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の建物の暖房用ボイラーとして平成5年まで使用されていた。
「金剛」はイギリスのヴィッカース社において大正2(1913)年巡洋戦艦として竣工した。艦には重油と石炭混焼の36基のヤーロー式ボイラーが搭載されていました。ヤーロー式ボイラーは、イギリスのヤーロー社が開発したもので、20世紀初頭の世界の代表的な艦艇用ボイラーであった。
昭和3年からの横須賀海軍工廠における近代化改装の際に撤去され、戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の建物の暖房用ボイラーとして平成5年まで使用されていた。
長崎の三菱重工史料館でも多数展示されていた。
現在の船体は主砲火薬庫の爆発により二つに折れており、主砲塔、副砲塔は船体から抜け落ち、右舷のスクリューは海底に突き刺さっている。艦橋は艦首のバルバス・バウの下敷きになっており、マストは抜け落ちた1番主砲塔の船体の穴の横にひっかかっている。海底には船体の破片や各種砲弾、乗組員の靴などが散乱している。
昭和60年「海の墓標委員会」、平成11年「大和プロジェクト'99」の2回にわたる潜水調査・一部遺品の引き揚げにより、「大和」の最期を知る多くの手がかりが得られた。
映像コーナーがあり、大和乗組員、遺族の証言を全部視聴した。同様の映像コーナーが各所にあり、ほとんど視聴したので随分時間を要した。展望室から眺めると、外は雨が降り続いていた。
14時30分頃館を出て、駐車場へ行き、車内でスナックを食べて、道路向かい側の海上自衛隊呉史料館(てつのくじら館)へ向かった。
朝鮮戦争での掃海で死者が出た話は知っていたので、戦後の海自は掃海から始まったということ。
機雷の種類と技術の展示からは、機雷の進化とその駆除がいたちごっこの有様になっていることが分かる。
します
80式魚雷は我が国初の有線誘導ホーミング魚雷である。目標の位置をつかんだ潜水艦から発射され、有線で誘導されながら目標に向かって進む。魚雷のホーミング機能により目標を追尾し、確実に命中する。次代の89式魚雷も同形式で、今日では有線誘導が世界の趨勢になっている。
展示用潜水を見学したのは、パールハーバーのボーフィン号以来2度目。第二次大戦時の潜水艦より艦体が大きくなっている。トム・クランシーの原子力潜水艦の本を読んだことがある。
1時間余り見学。16時近くと予定よりかなり長く見学した。雨が小止みになってきたので、内陸部にある重文の本庄水源地堰堤水道施設を見学しようと、向かった。道路からは遠望できたが、水道施設に着くと、入場禁止になって見学不可能だった。下流に戻ってアクセスしてみたが、やはり施設へ入れないようになっていたので諦めた。
広島市へ戻って、カキでも食べることにした。
ある程度、腹がふくれたので、定宿の佐方SAへ帰った。