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「戦国大名毛利氏の研究」秋山伸隆、吉川弘文館、1998。読書メモ

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毛利氏史料「閥閲録」などの文書数は1万通を超える。

毛利氏は国人領主から戦国大名化した典型的事例である。鎌倉末・南北朝期に安芸吉田荘に定着した毛利氏は高田郡域の在地領主層との対抗関係のなかで、かれらを排除し、あるいはかれらの支配を継承または保証しながら、本領周辺に所領を拡大した。さらに国人領主層と婚姻関係を媒介とする相互扶助協約を展開させていった。

大江氏は越後の基親流長井氏が惣領家。時親は庶流家。長井氏は鎌倉期に代々備後守護職を保持し、備後に分出した一族が、戦国期の毛利氏の備後進出の足掛かりになった。

毛利時親の孫親衡は高田郡の在地領主三田氏の娘を妻とした。鎌倉時代末期に安芸の国人化進む。

康暦3(1381)年元春による所領譲与。惣領家と麻原、福原、中馬、河本、坂の庶家体制が形成。南北朝期の一族による実力占拠を惣領元春が追認。所領は庶家全体で惣領家の3倍に達する。

吉田荘。永仁4(1296)年、領家花山院家と地頭毛利氏との間で下地中分が行われ、それぞれが本所祇園社の年貢を負担。1371年領家職が今川了俊から毛利元春へ預け置かれ、1381年以後本所祇園社への年貢送進が確認されなくなり、毛利氏による吉田荘一円支配が確立。

内部荘。葉山(城)頼宗は平安末期の安芸国衙の有力在庁で鎌倉幕府成立後、安芸守護に任じられ、宗孝親が継承した。その後裔を称する葉山氏は鎌倉末期内部荘地頭。毛利氏一族は葉山氏・三戸氏など安芸生え抜きの在地領主層と対抗し、彼らが南北朝期に没落することにより領地を獲得した。

入江保。官務家(小槻氏)領。毛利・武田・宍戸氏が代官職を争奪。鎌倉末期から在地領主化した預所の後裔である馬越氏が存在。嘉吉2(1441)年に毛利・宍戸氏が馬越氏を攻略し排除。毛利氏が下地を支配。

苅田(桂)。室町期の在地領主である長江氏(長井氏・木戸氏・桂氏とも称す)は鎌倉期からの地頭で、身分的には毛利氏と対等であったが、毛利氏の台頭により、文明3(1471)年長江広景は一族の内紛を避け自ら毛利氏の被官となった。

保垣。延徳2(1490)年、毛利弘元は厳島領の地頭格である羽仁氏の所領を安堵。高田郡・山県郡における厳島領の「地頭」は応仁・文明の乱以後は所領支配の保証を神主家ではなく、近隣の有力国人に求め、主従関係を結んだ。

南北朝期以後の毛利氏の所領の拡大は旧来の在地領主層の支配を否定するものではなく、何らかのかたちでそれを継承あるいは保証するものであった。

扶持。押領を排除するための軍事的援助。所領の保全を目的とする相互扶助協約。在地領主層の連繋強化が一国規模の在地領主層の結集である一揆を可能とした。


国人領主毛利氏の権力編成の変質。毛利氏発給の感状は弘元代に中小国人層を主従制的関係に編成していく過程で成立した。主人と家人という身分的支配秩序であれば感状でなく口頭で行われたと考えられる。
しかし、譜代家人ではない中小国人層に対しては感状によって戦功を確認し、恩賞を約束する必要があった。しかも、身分的には本来毛利氏と対等であることを考慮して、上意下達の書下形式ではなく、書状形式が用いられた。興元代を経て元就代には中小国人層も含めて書下形式に統一された。
ところが、厳島合戦後の元就・隆元は書下形式の感状を抑制し、書状形式を用いるようになった。
戦争が連続し家臣たちが戦功を立てても、恩賞として給付すべき所領が不足し、家臣たちの不満が高まっていたと考えられる。史料に「元就事ハ諸人ニうらミられ候て罷居迄候」と自身述べている。

軍事力編成の展開を大名権力の政策の貫徹を妨げている家臣団の規制力の存在に注目しながら考察。規制力とは国人領主段階で形成されてきた伝統的秩序であり、主従関係の双務的性格である。
毛利氏は「具足さらへ」によって軍役の数量的規定を実現するが、統一的・体系的なものではなかった。一方、家臣団の自立性は、知行制における毛利氏の検地を前提としない貫高と検地をふまえた貫高の併存にあらわれている。このような構造は。惣国検地の施行に至るまで克服されなかった。

毛利氏の寄親・一所衆制は、形成の契機と結合の実態に応じて二つの類型に分けられる。第一の類型は、寄親と一所衆の関係が軍事動員の際の部隊編成として設定され、両者間に特別な関係が存在しないもので、一所衆が寄親の指揮に服従しない場合があった。第二の類型は、家臣間の私的な関係がすでに存在しており、毛利氏がそれを一所関係として追認したもので、寄親の指揮権は安定していたが、主従制的な結合が生じる危険があった。
そこで。毛利氏は寄親への一所衆の服従を確保するとともに、寄親の一所衆に対する私的支配権を否定し、公的な式系統のなかの一指揮官の立場に限定しようとした。豊臣期にはこの指向が実現する。

鉄炮衆。分国境界方面の諸城に小規模・分散配置した。鉄炮は籠城衆に対する誠意であり、救援軍派遣の約束手形として機能した。鉄炮衆の集中使用という軍事的合理性よりも前線の武将の心の掌握を優先したのは、武将・国衆との人格的信頼関係に依存するところが多かったという毛利氏の軍事力編成の特質に規定されていた。
天正10(1582)年以前の毛利氏直属の鉄炮の総数は数百挺程度。

流通支配。毛利氏は守護大名の流通支配権を継承・発展させるかたちで地方都市や港町を直轄領・一門領として支配下におき、有力商人・職人を通じて業種別に組織された座を掌握することによって、商人・職人の活動に対する課税や統制を実現した。さらに新たに富裕層の一部を大名財政の運用にも関与する特権商人(倉本)として編成している。このような流通支配が、大名権力の軍事的・経済的優位を確立させ、領国統合の一つの契機となっている。
河関において河下される材木に対する課税。赤間関から美保関にいたる日本海沿岸の要港を支配。
毛利氏の財政。借米・借銭。公領年貢を担保。

毛利氏は、国人領主、寺社、農民に対して、国支配の論理にもとづいて統治権的支配権を行使し、法と官僚制の整備を目標とする公権力化を進め、天皇・将軍の権威を利用しながら大名を頂点とする領国内部の身分序列の編成を実現しようとした。このような毛利氏の領国支配は豊臣政権の天下の下での一国家として位置づけられることによって確立し、国家の名の下に支配体制全般の刷新として戦国大名から豊臣期大名への移行が図られた。

天文23年安芸折敷畑合戦と感状。宮川甲斐守の討死。9月15日説の成立。

戦国大名領国の境目と半納。
郡山城絵図の基礎的考察。
惣国検地の実施過程。打渡の手続。

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