西国大名と室町幕府。室町幕府・守護と荘園。
山名氏と高野山領備後大田庄。応永の乱後、防長両国に拠って幕府に対抗する大内盛見を討伐するため、幕府は応永8(1401)年に山名常熈を備後守護に、山名一族を石見・安芸の守護に任じた。
守護山名常熈を支援するための一つの措置が、大田庄の守護請であった。応永9年の将軍御教書は山名氏が大荘である大田庄年貢1800石のうち、わずか1000石で請負ったということは、将軍義満が中国地域における緊迫した政治情勢に危機感をもった現れであった。尾道及び世羅郡の要衝を掌握するという戦略があった。しかも、その後38年間の未進額は年平均540石にのぼった。
守護山名常熈を支援するための一つの措置が、大田庄の守護請であった。応永9年の将軍御教書は山名氏が大荘である大田庄年貢1800石のうち、わずか1000石で請負ったということは、将軍義満が中国地域における緊迫した政治情勢に危機感をもった現れであった。尾道及び世羅郡の要衝を掌握するという戦略があった。しかも、その後38年間の未進額は年平均540石にのぼった。
細川氏と東寺領備中国新見荘。将軍義満が山名氏を討伐した明徳の乱後において、幕府側において重要な役割を担ったのは細川頼之ら細川氏一族であった。細川氏は備後守護、備中の分郡守護
に任じられ、山名満幸方の押妨が繰り返される東寺領新見荘に入部し。合戦兵粮用に新見荘年貢の5分の1の徴収を認められ、また直接に所務をして多額の料足を責め取ったのである。その影響で東寺の新見荘支配は有名無実なものになっていった。
に任じられ、山名満幸方の押妨が繰り返される東寺領新見荘に入部し。合戦兵粮用に新見荘年貢の5分の1の徴収を認められ、また直接に所務をして多額の料足を責め取ったのである。その影響で東寺の新見荘支配は有名無実なものになっていった。
赤松氏と東寺領播磨国矢野荘。守護赤松氏による人夫役、木材や檜皮等資源の動員を通して、矢野荘民には守護の権威が浸透した。南北朝時代中頃の赤松則祐の代には本拠城である城山城、白旗城の普請や赤松氏の精神的支柱である宝林寺の造営が進められた。動員された荘民たちが他地域との交流を重ねることによって、荘園世界の枠組みが崩れていき、守護領国が形成された。
守護と流通経済。赤松円心が足利尊氏に認められ、幕府創設にあたって播磨・摂津両国の守護に任じられたのは、西播磨地域の木材資源を基盤にしたその流通領主としての広域的活動を認められてのことであったと考えられる。
赤松氏は鎌倉時代末期には海陸交通の要衝である摂津沿岸部の長洲御厨や九条家領輪田荘などの荘園所職に基づいた強固な基盤を確保していた。赤松氏は西播磨地域を本拠にあいてその地域の材木などの地域資源を河川や内海を運送して商売していた材木領主、流通領主であった。
赤松氏は鎌倉時代末期には海陸交通の要衝である摂津沿岸部の長洲御厨や九条家領輪田荘などの荘園所職に基づいた強固な基盤を確保していた。赤松氏は西播磨地域を本拠にあいてその地域の材木などの地域資源を河川や内海を運送して商売していた材木領主、流通領主であった。
大内氏と安芸国人連合。大内氏の支配下で発展した安芸国人連合の盟主は高橋氏であった。盟主の役割は、大内氏の命令を受けて行う国人領主への軍勢催促であり、また国人領主の軍忠を大内氏に吹挙し、その褒賞としての土地給与等を伝達することなどである。高橋氏の領域は安芸北東部から石見東南部にかけて広がっていた。
永正5(1508)年に大内義興に随って上洛した安芸国衆のうち、高橋元光・毛利興元・吉川元経らは永正8年、戦線から勝手に離脱して帰国した。翌年三人は天野氏・平賀氏・竹原小早川氏・阿曽沼氏・野間氏の国衆と連署の一揆契約を結び、大内義興からの圧力に対応した。
高橋元光は永正12(1515)年備後三吉氏との合戦中に戦死し、跡を高橋興光が継いだ。しかし、興光は享禄2(1529)年に尼子氏と大内氏との攻防戦中に尼子氏に一味したとして大内氏・毛利氏・和智氏・宍戸氏らの連合軍に滅ぼされる。
その盟主の地位を奪い、広大な所領を奪取したのが、その直前に尼子氏方から大内氏方に転じていた毛利元就であった。
高橋元光は永正12(1515)年備後三吉氏との合戦中に戦死し、跡を高橋興光が継いだ。しかし、興光は享禄2(1529)年に尼子氏と大内氏との攻防戦中に尼子氏に一味したとして大内氏・毛利氏・和智氏・宍戸氏らの連合軍に滅ぼされる。
その盟主の地位を奪い、広大な所領を奪取したのが、その直前に尼子氏方から大内氏方に転じていた毛利元就であった。
陶隆房が大内義隆を殺害するにあたって、安芸国衆には毛利元就、石見国衆には益田藤兼を通じて与同を取り付けているのはその盟主権のためである。
大内氏の安芸国支配は東西条代官と称する守護代的地位に重臣を配置しても求心性・統合性を保持できず、国衆連合の盟主のもとへの求心性とが車の両輪となっていた。
大内氏の安芸国支配は東西条代官と称する守護代的地位に重臣を配置しても求心性・統合性を保持できず、国衆連合の盟主のもとへの求心性とが車の両輪となっていた。
村と河と海の戦国時代史。経済の要衝と地域資源の争奪。
尼子氏。出雲守護京極史の守護代。応仁・文明年間。日本海水運や朝鮮貿易に関わっていた松田氏を制圧。その支配下にあった美保関を掌握し、松田氏と同盟していた海辺領主層を統制下に組み込んだ。
16世紀初め。出雲西部の斐伊川・神戸川河口を領有し、出雲南部の山間地域を流域とする河川水運と日本海水運の結節点という経済的要衝を掌握していた幕府奉公衆塩冶氏を討滅。宗教的権威である杵築大社の両国造家(千家氏・北島氏)や古志氏らと形成していた地域秩序を解体。
1540年代。山間地域の仁多郡三沢郷を本拠に皇室料所である横田荘をも支配下におさめていた三沢氏を攻撃し、横田荘を直轄領化した。地域資源である良質の鉄の争奪。
16世紀初め。出雲西部の斐伊川・神戸川河口を領有し、出雲南部の山間地域を流域とする河川水運と日本海水運の結節点という経済的要衝を掌握していた幕府奉公衆塩冶氏を討滅。宗教的権威である杵築大社の両国造家(千家氏・北島氏)や古志氏らと形成していた地域秩序を解体。
1540年代。山間地域の仁多郡三沢郷を本拠に皇室料所である横田荘をも支配下におさめていた三沢氏を攻撃し、横田荘を直轄領化した。地域資源である良質の鉄の争奪。
宇喜多氏。備前・美作地域。東から吉井川・旭川・高梁川。荘園・国衙領の年貢や木材等の河川流通。山間地域の鉄資源。
16世紀中頃。吉井川水系。上流域・美作倉敷・三星城の後藤氏、中流域・和気・天神山城の浦上宗景。河口・砥石城の宇喜多氏。旭川水系。上流域・高田城の三浦氏、中流域・金川城の松田氏、下流域・龍の口城の税所氏。高梁川水系。中流域・三村氏。
彼らに共通することは、その城郭の麓に大河が流れ、河川領主の性格を有していたこと。彼ら国衆は相互に婚姻関係を結び、備作地方の支配秩序を保持していた。
政治的均衡が崩れたのは、交通上の要衝であり守護領化した長講堂領鳥取荘を領有していた浦上政宗が天神山城に拠る弟浦上宗景と対立しながらも、播磨へ撤退したため、鳥取荘に宇喜多氏が進出したことによる。
宇喜多直家は軍事的優位に立ち、永禄年中(1558~69)に旭川水系の税所氏、松田氏を討滅し、天正元(1573)年には河口の岡山に築城した。天正3年には天神山城の浦上宗景を攻めて落城させ、美作にも侵攻した。旭川水系・吉井川水系の水運の権益が国衆らの共有から宇喜多氏の独占へと進んだ。
16世紀中頃。吉井川水系。上流域・美作倉敷・三星城の後藤氏、中流域・和気・天神山城の浦上宗景。河口・砥石城の宇喜多氏。旭川水系。上流域・高田城の三浦氏、中流域・金川城の松田氏、下流域・龍の口城の税所氏。高梁川水系。中流域・三村氏。
彼らに共通することは、その城郭の麓に大河が流れ、河川領主の性格を有していたこと。彼ら国衆は相互に婚姻関係を結び、備作地方の支配秩序を保持していた。
政治的均衡が崩れたのは、交通上の要衝であり守護領化した長講堂領鳥取荘を領有していた浦上政宗が天神山城に拠る弟浦上宗景と対立しながらも、播磨へ撤退したため、鳥取荘に宇喜多氏が進出したことによる。
宇喜多直家は軍事的優位に立ち、永禄年中(1558~69)に旭川水系の税所氏、松田氏を討滅し、天正元(1573)年には河口の岡山に築城した。天正3年には天神山城の浦上宗景を攻めて落城させ、美作にも侵攻した。旭川水系・吉井川水系の水運の権益が国衆らの共有から宇喜多氏の独占へと進んだ。
毛利元就の中国制覇の意義。天文10(1541)年に武田氏を滅ぼして太田川河口の佐東領を直轄領とし、側近の桂元忠・児玉就忠らに支配させた。同時に、領内の蔵敷地を本拠にしていた商人的領主の堀立直正を直臣にした。
毛利元就は石見銀山、鉄資源の豊富な出雲、赤間関・温泉津・杵築町のような経済的要衝に直臣を配置し、直接の支配下においた。彼ら直臣は吉田の譜代家臣からではなく、家中内外から人材を抜擢して育成・登用した。元就は吉田の譜代家臣の無能ぶりを嘆き、領国の拡大にもかかわらず支配にあたる人材の不足を指摘していた。
毛利元就が遂行した戦争は、国際的に高い評価を得た石見銀山銀とそれを資源にしてヨーロッパ世界とも繋がった中国地域・日本海地域・瀬戸内海地域の産業や流通経済権益の争奪戦であり、そうした流通経済の広域ブロック化であった。
毛利元就は石見銀山、鉄資源の豊富な出雲、赤間関・温泉津・杵築町のような経済的要衝に直臣を配置し、直接の支配下においた。彼ら直臣は吉田の譜代家臣からではなく、家中内外から人材を抜擢して育成・登用した。元就は吉田の譜代家臣の無能ぶりを嘆き、領国の拡大にもかかわらず支配にあたる人材の不足を指摘していた。
毛利元就が遂行した戦争は、国際的に高い評価を得た石見銀山銀とそれを資源にしてヨーロッパ世界とも繋がった中国地域・日本海地域・瀬戸内海地域の産業や流通経済権益の争奪戦であり、そうした流通経済の広域ブロック化であった。
備後国相方城と毛利氏。相方城跡は山陽道・瀬戸内海筋の情報を即座に集約し、対応できる立地、壮大な規模、延長約100mにわたって築き上げられた石垣・土塀の痕跡など広島県内においては特色ある城郭遺構である。この城は、毛利氏が天正15~18年の惣国検地ごろから本格的に品治郡に直属の鉄炮隊である中間頭田中四郎右衛門や、飛落・渡両中間家を配置し、彼らを番衆とする直轄城として築き。つづく文禄・慶長年間の10年をかけて整備したものと考えられる。
このことは豊臣政権下の大名となった毛利氏がこの時期においても東方への警戒を怠らなかったことを示している。
このことは豊臣政権下の大名となった毛利氏がこの時期においても東方への警戒を怠らなかったことを示している。
厳島神社の祭祀と毛利元就。棚守房顕手日記。藤原姓神主家の滅亡と棚守房顕。
大内義隆代における武家故実書と毛利氏「国家」成立史。隆元の「山口かヽり」と父元就・執権志道広良。「約束之書違」がもつ毛利氏の歴史。
毛利元就と「張良か一巻之書」。
大内氏滅亡後の防長旧臣層と毛利氏。吉田興種討伐の背景。周防名族仁保氏一族。