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広島市 不動院 中小田古墳群 武田山・銀山城跡

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広島市。不動院。国宝金堂。平成25年10月26日(土)。台風による雨は水木金と降り続いた。雨が止んで戸外の見学がようやく可能になり、佐方SAからまず広島市東区の不動院へ向かった。
市内から国道を北上し、Uターンして脇道に入るのに一苦労。8時頃だったが、駐車場に若い男が乗った車が一台、女性も一人参拝に来ていた。ただし、建造物は修理保存工事中だったので、全体は見られない。
不動院は金堂内に安置されている本尊薬師如来像が定朝様式であることから、平安時代には創建されていたと推察される。また、足利尊氏、直義兄弟が日本六十余州に設立した安国寺の一寺であり、守護武田氏の菩提寺として繁栄したが、大永年間(1521~27)武田氏と大内氏の戦いにより安国寺の伽藍は焼失した。
その後、寺を復興したのが、毛利氏の外交僧安国寺恵瓊で、豊臣秀吉は寺領として一万千五百石を与えた。恵瓊は金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院などを復興整備した。関が原の合戦で西軍に与した恵瓊が非業の死をとげると、寺領は没収され、 寺運は次第に衰えた。毛利氏が去った後、 福島正則が入国すると正則の祈祷僧である宥珍が入って住持となり、禅宗から真言宗に改め、不動明王を本坊に移して本尊とした。
昭和20年の原子爆弾投下に際しては山麓という地理的条件が幸いして災禍を免れ 一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、昔の栄華を今も留める極めて貴重な存在となっている。
不動院には、国宝である金堂など数多くの文化財が所在している。

国宝金堂は天井の墨書から天文9(1540年)の建築とされる。屋根は入母屋造、柿葺き。2階建てのように見えるが、一重裳階付きである。不動院は密教寺院であるが、金堂の建築様式は典型的な禅宗様(唐様)であり、内部を土間床とする点、豪壮な天井架構、扉、窓、柱の形状等に禅宗仏殿特有の形式が見られる。この堂は当初から不動院にあったものではなく、山口市にあった禅宗寺院・凌雲寺から天正年間(1573-1592)、安国寺恵瓊により移築されたものである。原爆による大きな被害も受けず広島市内に現存する唯一の国宝である。

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不動院鐘楼。重要文化財。永享5(1433)年の建築。入母屋造柿葺重層袴腰付屋根。

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楼門。重要文化財。文禄3(1594)年の建築。入母屋造本瓦葺。「楼門」と称するが、建築形式的には「楼門」でなく「二重門」(上層・下層境にも軒の張り出しをつくる)である。
上層の尾椎に「朝鮮木文禄三」(1594)等の刻銘があり、 文禄の役に従軍した恵瓊が当時の朝鮮から良材を持ち帰って 建立したものと伝えられている。
2劼曚彬未涼羮田古墳群へ向かう。

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中小田古墳群。松笠山道教地蔵コース登山口。太田川に沿って北進し、下小田・中小田バス停周辺を探索し、南へ戻って旧道入口付近に駐車。旧道を歩くと、秋祭りの準備をしている道教地蔵尊の御堂があり、登山口の表示を発見した。JR芸備線の踏切を越え、山道へ入り東方向へ登る。昨日までの降雨により、道が川のようになっている地帯を抜けると、土砂や雑木で荒れた山道が続いた。登山靴でもぬかるむ道を登ると、ようやく「三丁」の標示石に出た。道の左上部に古墳があるのだが近づける状態ではないので立ち寄らず、崩壊した山道をさらに登ると、鳥居のある尾根上台地に辿り着いた。

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中小田古墳群。鳥居。古墳群への尾根上の入口。ここからは西への眺望がある、古墳群からは眺望はない。中小田バス停1020m、道教地蔵尊670mの表示がある。道教地蔵尊からの山道は崩壊状態であった。横には、中小田古墳群の案内図と説明の看板もある。図からは数分で古墳群や第1号古墳へ行けそうだったが、実際には10分ほどかかった。帰路は鳥居へ戻って中小田バス停方向へ下りれば良かったのだが、戻らずに古墳群内の道をそのまま北へ直進した。すると、道が竹藪で終わり、法面工事個所で立入禁止となっていた。下に民家が見えるので、降りてみたが、斜面が垂直のブロック面になって危険と判断し、工事現場に戻って、急斜面を無理やり降りることに成功し、旧道を南の下小田方向へ戻ったが、かなりの時間を消費してしまった。
どうやら、現状では中小田バス停から松笠山方面へ往復する道が安全なアクセスのようだ。

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中小田古墳群第1号古墳。国史跡中小田古墳群は太田川下流左岸の南から北に延びる標高60~130mの丘陵尾根上に築かれた古墳時代前期から中期にかけての16基からなる古墳群で、太田川に突き出した見晴らしのよい尾根上に造られている。
第1号古墳は前方後円墳で全長約30m、高さ約4mの北東部に前方部を持つ。後円部中央に内法の長さ3.5m、幅約1mの竪穴式石室があり、三角縁神獣鏡、獣帯鏡、車輪石、玉類、鉄斧などが出土した。出土遺物から、古墳時代前期後半(4世紀後半)の築造と推定されている。

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第1号古墳横の説明板。中小田古墳群の第1号墳からは「卑弥呼の鏡」とも言われる「三角縁神獣鏡」が出土した。三角縁神獣鏡は四神四獣鏡で「吾作明意甚大工、上有王喬及赤松、師子天鹿其義龍、
天下名好世無雙」と読める銘文が鋳込まれており、椿井大塚山古墳(京都)、万年山古墳(大阪府)、石塚古墳(福岡県)から出土した鏡と同笵鏡といわれている。
5世紀頃の円墳で鉄製の冑・短甲類が出土した第2号古墳の副葬品等から,いずれも太田川下流域の首長墓の中では中核的な位置を占めており,同地域の沖積平野と内海交通を掌握していたと推測される。
このあと、太田川対岸の銀山城跡の残る武田山へ向かった。途中にコインランドリーを見つけたので、1時間余り登山服類の洗濯に費やした。


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武田山・銀山城跡。御門跡銀山城(かなやまじょう)は、鎌倉時代の終わり頃、安芸国の守護であった武田氏が築いたと言われる山城である。
承久の乱(1221年)で手柄をたてた甲斐武田氏の武田信光が、安芸国守護職に任命され、武田氏は代官を派遣して統治していたが、元寇後の文永11(1274)年に、信光の孫、信時が安芸国に下向した。南北朝を迎えると、信光の後5代目の武田信武は、早くから足利尊氏に従って戦功を挙げ、甲斐及び安芸二カ国の守護に任ぜられ、信武の嫡男信成は甲斐国守護職を継承した。
信武の二男氏信は、父に従って安芸に在国し、安芸国守護に任ぜられて安芸武田氏の祖となった。安芸武田氏は、この氏信を始めとして甲斐武田氏から分流、以後、第11代信実まで約200年間、安芸地方の有力勢力として続いた。 
銀山城を築いたのは、信時の孫、信宗と伝えられる。武田山から見下ろす旧祇園町一帯には、中世、佐東八日市を始めとする市場や各地の荘園から運ばれてきた物資などを保管する倉敷地があり、政治、経済、交通のいずれの面でも要衝であり、銀山城は格好の位置に築かれた。
標高410.9mの武田山全山にわたるこの城は、守りの固い名城とされ、大内氏の激しい攻撃にも落ちなかったが、武田氏の勢力の衰えた天文10(1541)年、大内氏の命を受けた毛利元就らの巧みな戦略によってついに落城、以後は大内氏の支配下におかれ。天文23(1554)年には、毛利元就が自身の居城として手中に納めた。

登山口は武田山憩いの森にある。駐車場から30分ほどで山頂に着く。憩いの森から馬返しまでは比較的ゆるやかな登りが続き、馬返しを過ぎると、しだいに勾配がきつくなって、急な石積みを登ったところに御門跡がある。

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御門跡は自然石を周囲に積み重ねた四角形の構造となっていて、その中は6メートル四方ほどの空間であった。通路を直角にとる「かぎの手」の石積みを残しており、近世城郭の枡形の原形として注目される。

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千畳敷。本丸があったところ。まわりには、当時弓矢に使ったと言われる矢竹と呼ぶ小竹が生えているほか、弦や矢をよくすべらすための椿が多く植えてある。

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武田山山頂には「御守岩台(ごしゅいわだい)」と呼ばれる郭があり、標高410.9mの山頂からは、ふもとに広がる祇園の町、ゆったりと南流する太田川、高層ビルが林立する市街地が一望できる。さらに広島湾には、絵のような島々が浮かび、光輝く瀬戸内海の絶景が続く。

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武田山山頂からのパノラマ。中央手前右の丘陵麓に不動院、中央やや左の小高い山が松笠山で手前中腹に中小田古墳群がある。

武田山は市民に人気のある登山コースで、家族連れや老夫婦など多くの人が登っていた。

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館跡と鶯の手水鉢。館跡は御守岩台の一段低いところにある城内で最大規模の面積を持つ郭。中央には巨石が重なり合い、これらの岩には、建物を建てたと考えられる柱穴などの加工痕がいたるところに見られるという。
館跡のすぐそばの岩の上に、鶯の手水鉢人工的なくぼみがあっていつも雨水が溜まっている。弓を射るとき、手を潤すために使用したものだとか、どんな日照りにもこの水は乾いたことがないとか、いろいろの言い伝えがある。

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犬通し。尾根の一部が掘り下げられた掘切で、ここは、山の表から裏への連絡路として造られた。
館跡からさらに北へ進んで、道を下ると犬通しに出る。犬通しからさらに北側を登ると、見張台のある台地に出る。

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見張台。大きな平たい石の上に、長さおよそ1mと1.6m、どちらもおよそ12cm幅の二本の浅い溝が彫りこまれており、この溝の上に見張りの櫓があったという。
台地の北端まで行ってみたが、樹木により眺望は得られなかった。
ここから、山頂経由で下山。駐車場から帰ろうとすると、山頂で話をした老夫婦が帰ってきた。直登ルートでなく、遊歩道ルートから下山したとのこと。
15時になったので、可部の高松城跡はあきらめ、資料館のある府中町方面へ向かった。

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