Image may be NSFW.
Clik here to view.
府中町歴史民俗資料館。展示資料。謎の有段石斧。平成25年10月26日(土)後半。14時50分頃武田山憩の森を出発し、15時30分頃府中町歴史民俗資料館に着いた。府中町は安芸国府のあった町である。裏の公民館に駐車して、歴民から見学した。月曜休館で、16時閉館なので急いで来館した。入館料は無料。受付で名水百選の件を尋ねると資料を渡してくれた。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
府中町歴史民俗資料館。展示資料。謎の有段石斧。説明資料。Clik here to view.

弥生時代・古墳時代なのか何時の時代の石器かは不明。ハワイにもあるという点に惹かれた。 国分直一の「日本民俗文化誌--古層とその周辺を探る」によると、弥生時代の造船用具で、南中国・朝鮮経由で日本にもたらされたもののようだ。ポリネシア諸島各地にも存在するといい、南島文化の広がりを示す石器かもしれない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
広島県の古代文化圏。府中町歴史民俗資料館。意外にこの手の図版は少ない。太田川文化圏の中心に「多家」とあるのが、府中地域。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
下岡田遺跡出土資料。府中町歴史民俗資料館。城ヶ丘の丘陵の先端部に位置し、かつては西側のすぐ近くまで広島湾の波に洗われていた。礎石や根石のある瓦葺の建物を中心に掘立柱の建物や井戸の跡などが確認され、軒丸瓦・軒平瓦などの瓦類・多数の須恵器・土師器・緑釉陶器・硯・木簡・斎串・古銭などが出土している。遺跡は奈良時代末~平安時代初期(8~9世紀)の地方の役所の跡と考えられ、特に山陽道の安芸駅跡とする考えが有力である。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
安芸国衙地割復原図。府中町歴史民俗資料館。Clik here to view.

安芸国府は現在の府中町にあったと考えられている。最初は、東広島市西条に置かれ、この西条国府から今の府中町へ移転したようだ。10世紀の倭名類聚抄には、安芸国府は安芸郡に在りと書かれているので、平安前期には府中町へ移転したものと思われる。
図は安芸国衙の推定図である。図の中央に国庁屋敷と見えるが、現在は田所明神社があり、田所家が現存する。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
武田元信知行安堵状。府中町歴史民俗資料館。室町時代の府中は安芸(安南・安北郡)と佐東郡・山県郡の分郡守護武田氏が支配し、新勅使田や国衙領を押領した。府中周辺には武田氏家臣の白井氏が城を構えて、大内氏や毛利氏らに対抗した。白井氏は応永年間(1394年~1428年)、下総国から移ってきたといい、のちに毛利氏などにつかえ、瀬戸内水軍として活躍した。Clik here to view.

明応4(1495)年の書状。白井光胤が守護武田氏から仁保海上での公事徴収権や府中・古市などの支配権を認められた文書。原本は愛知県西尾市立岩瀬文庫蔵。
16時になり、徒歩で町内の見学にでかけた。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
惣社跡。総社は国司が国内の諸神社を巡拝する代わりに、国中の神霊を合祀した神社である。在庁官人となった田所氏が安芸の国で力を得た平安時代末頃の建立と思われる。た田所文書にも多くの免田が記載されている。江戸時代には春秋二季の祭りに流鏑馬なども行なわれていたが、南の八幡社と多家神社の所在を巡って争いが絶えず、明治7年に創建された多家神社に合祀された。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
出合清水。最近まで今出川清水と誤称されていた。平成24年に横田禎昭氏に指摘されるまで、昭和44年頃から取り違えており、ここから数百m離れた場所にあり名水百選に指定された清水が現在は今出川清水とよばれている。この出合清水も古くからの名水で近くには総社跡や田所屋敷跡があり、神聖な水として神殿に供えられ、また住民の生活用水としても昔から大切に使われていた。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
国庁屋敷・田所明神社。平安時代末~鎌倉時代、安芸国の有力な在庁官人であった田所氏の館跡と伝えられる、田所明神社は飽速玉命を主祭神に七柱の神を守護神として祀る。大正5年に国庁神社(厳島遥拝所)、槻瀬明神、大黒社を合祀して、田所明神社として現在地に建立した。田所氏は奈良時代以前の安芸国造であった飽速玉命の出自(姓佐伯氏)と伝え、佐伯氏は国司制度が確立してからは佐伯郡司に任命されたという。平安時代の初め頃田所氏(田所氏は姓を佐伯のほか三宅、石井とも称し、平安期の職名「田所」を本姓としたと伝える)は五日市から府中に移り、以後国府の在庁官人として安芸国の政治を掌るとともに、厳島神社の厳島国府上卿として祭主も務めた。今の石井城跡の地に広大な屋敷を有し延久4(1072)年に国庁神社を建立したという。元禄3(1690年に現在の地に移った。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
名水百選・今出川清水。平成24年までは誤って出合清水とよばれていた。榎川が形成する扇状地の扇端部に湧出する。近隣住民の生活用水として水天宮を祀り大切に保管されてきた。この水は榎川の上流水分峡の奥から地下を通って扇状地の扇端部に湧き出ており、現在は湧水が少なくなり、飲用として使用できないが歴史的遺産として姿を残している。Clik here to view.

この今出川清水は海抜6メートルにあり、背後に近郷最高の海抜662mの呉娑々宇山を源に水分峡(今出川清水の北東約1.5km)の奥から地下を通って湧き出ているといわれている。
事前に知ってはいたが、残念ながら水汲みはできない。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
石井城址。鎌倉時代末~南北朝初期の石井氏一族の拠城と伝えられるが、城郭らしい遺構は明瞭に残っていない。南端には五輪石を並べた墳墓がある。石碑に残る石井末忠は後醍醐天皇方として戦い、楠木正成とともに湊川で討死した。Clik here to view.

石井城という地名からどこかにあると思い、北の高台へ上っていくと、石井城址に遭遇した。
Image may be NSFW.
Clik here to view.
石井城址から眺める府中の町並み。海側方向で、多家神社の森が正面に眺められる。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
多家神社。神武東征のおりの埃宮(えのみや)伝説地。延喜式内名神大社の後継社とされる。明治6年に新設した。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
多家神社宝蔵。新設のさい、広島城の三の丸にあった稲荷社殿の1棟を移築したもので、江戸時代初期の建築とされる。檜皮葺き、入母屋造り。Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.
多家神社宝蔵。校倉造りで普通三角の木を組んであるが、ここは四角の木を組みこんだ類例がない珍しいもの。Clik here to view.

17時を過ぎ、暗くなりかけたので見学を終了。安芸区船越南のお好み焼き「大樹(ひろき)」で広島焼を食べた。食べログの評判通り、今度は美味かった。小さい店で狭い一方通行道路に面した意外な場所にあり、駐車に苦労した。定宿の佐方SAへ帰り、翌日曜日は呉で護衛艦の一般公開などを見学。