Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

メキシコ・シティ フリーダ・カーロ博物館 その1  「私の家族」 「私の父親」。

$
0
0
イメージ 1
「二人のフリーダ」。2014年11月23日(日)。メキシコ・シティ。
「二人のフリーダ」は11月11日にメキシコ国立近代美術館で鑑賞した。

いよいよ本日はコヨアカンのフリーダ・カーロ博物館の見学である。
フリーダ・カーロ(19071954年)は美術史上、最高の女性画家のひとりだと思う。ディベラ、オロスコ・シケイロスらの壁画画家よりも、圧倒的な訴求力がある。芸術はそれを視聴する者にどれだけ感動を与えるかが大事だ。巧拙ではない。グランマ・モーゼスは穏やかに、フリーダ・カーロは激しく。
フリーダ・カーロを知ったのは、1990年前後のNHK教育テレビ日曜美術館だった。コルセットと血に包まれた彼女の人生とその自画像は衝撃的だった。
 
イメージ 2
コヨアカン植物園。ヨガのエクササイズを行う人々。
11月23日は定宿の「サンフェルナンド館」でしっかり朝食をとり、まず11月12日に見学できなかった国立宮殿へ向かった。ところが、またしても閉鎖中のため入館できなかったので、コヨアカンのフリーダ・カーロ博物館へ向かった。

11時45分頃、メトロ3号線のビベロス駅で下車。駅すぐ東にあるコヨアカン植物園の西口から入場する人波が多かったが、植物園の周囲を北へ回って歩いた。後から思えば、植物園西口から入って、中を突っ切って、フリーダ・カーロ博物館に近い北東出入口からでれば、よかった。

植物園の北口に着いたとき、植物園に面白いサボテンでもないかと思って、植物園に入ってみることにした。入場料は無料で門しかない。案内図があり、中程にサボテン園があるようだったので、行ってみたが、ほとんどなかった。内部は森のようになっていて、人々は日曜日に様々なレクリーエションを行う憩いの空間であった。ヨガはありきたりだが、模擬刀を使って太極拳をやっている人々もいて、ここまでメキシコに中国文化が浸透しているのかと唖然とした。
北東出入口の園芸店街を眺めてから、フリーダ・カーロ博物館のあるロンドゥレス通りを東へ向かった。
 
イメージ 3
フリーダ・カーロ博物館。ロンドゥレス通りの南西角から。
低層の住宅街が続き、菓子・飲料類の売店で昼食代わりに買い食いしながら道を進むと、ほどなくフリーダ・カーロ博物館の「青い家」が見えた。
12時30分頃だったが、観光バスまで停まっていて、日曜日とはいえ、これほど客が多いとは思わなかった。
 
イメージ 4
フリーダ・カーロ博物館。入口。
フリーダが暮らしたこの「青い家」はフリーダが生まれる3年前の1904年に、写真家といsて成功した父ギリェルモが家族のために建てた家である。
悪運を遠ざけるとされるコバルトブルーが、赤色や窓枠とドアと浮き出し装飾の緑色と組み合わされている。
 
イメージ 5
フリーダ・カーロ博物館。入場待ちの列。
入口から東へ200mほどの列ができている。メキシコ人や欧米人など。日本人やアジア系はほとんどいなかった。列の横にはアイスクリーム屋が来ていた。列は長いが、なぜか途中で抜ける人もいて、20分余りで受付けに到着した。
シニア割引と書いてあったので、パスポートを見せると、料金は写真撮影込みで75ペソになった。
 
イメージ 6
フリーダ・カーロ博物館。受付西の絵画展示室北。
 
イメージ 7
フリーダ・カーロ博物館。受付西の絵画展示室北壁。
壁の赤枠の中には「フリーダとディエゴがこの家に1929年から1954年まで住んだ」と書かれている。
フリーダが少女時代を過ごしたのち、のちに抵当に入っていたこの家を結婚時にディエゴが買い戻した。
 
イメージ 8
煙突。フリーダ・カーロ博物館。絵画展示室。
煙突は1934年頃にディエゴの設計により造られた。プレヒスパニック風の簡素な幾何学的形状のものを基本にアール・デコ趣味を加えている。
 
イメージ 9
「私の家族」。1949年。未完成。
祖父母たち、両親、下列の中央がフリーダ。左に姉のマティルデ、アドリアーナ。右に妹のクリスティナ。その右の二人の人物は不明だが、クリスティナの子供または父の先妻の異母姉妹という説がある。その手前のスケッチ風の人物はフリーダの幼くして亡くなった兄という説がある。
フリーダの左横の胎児はフリーダが産めなかった子供の象徴と考えられる。
1949年から描きはじめ、姉マティルデが亡くなった1951年に中断し、フリーダの死により未完成となった。
 
フリーダの父親のギリェルモ・カーロは1871年にドイツ南東部のプフォルツハイムでハンガリー系宝石商の家に生まれ、ニュルンベルクで学生生活を送った。ユダヤ系とされることが多いが、調査では非ユダヤ系である。彼は、転倒事故を起こしてから、てんかんの後遺症に苦しむことになった。

母の死後、父が再婚すると、1891年にメキシコへ渡航し、本名のウィルヘルムをメキシコ風にギリェルモと変えた。メキシコ人女性と結婚して、二人の娘をもうけたが死別した。彼は当時勤めていた宝石店の同僚マティルデと再婚した。その後、ギリェルモは義父の仕事を引き継いで写真家となり、成功した。

1910年頃、彼は当時のメキシコの独裁者ポルフォリオ・ディアスによって、メキシコで最初の文化遺産公式写真家に任命され、社会的に高い地位を獲得した。しかし、メキシコ革命の勃発により政府からの仕事は途絶えて、安定した生活は終わりを告げた。フリーダはこの頃の状況について後年「私の家ではとても困難なもとで暮らしを立てた」と回顧している。
1941年に死去。
 
フリーダの母親のマティルデ・カルデロン・イ・ゴンザレスはスペイン人の将軍の娘で敬虔なカトリック教徒の母と、インディオの血を引く写真家の父を両親にもつ、メキシコ南部オアハカ出身の女性であった。1932年に死去。
 
イメージ 10
「私の父親」。1952年。
父のギリェルモ・カーロは職業写真家であった。フリーダは彼のもとでカメラの使い方を学び、現像、修正、着色の方法を教わった。それらは病的な正確さが要求される細かな作業だったが、そうした経験がのちに彼女が自画像を描くようになったときに影響を及ぼした。
この肖像画は1898年の結婚当時の写真をもとに描いているようであるが、父が仕事に取り組むときの厳格さをはっきりと表現している。意志が強く、まっすぐな態度を貫き、決して満足しない、経験とドイツでの教育によって培われた父の姿勢が見事に示されている。
 
下部にフリーダの手書き文が添えられている。「私は父親のウィルヘルム・カーロを描いた。父は寛容、知的で、洗練され、雄々しい人物だった。60年間てんかんと闘い、仕事をあきらめず、ヒットラーに屈しなかった。敬愛を込めて。娘フリーダ・カーロ。」
 
父はフリーダに暖かい愛情とドイツ風の教育を与え、フリーダも父はよき理解者であったと述べている。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles