フリーダ・カーロ博物館。2014年11月23日(日)。メキシコ・シティ。
アグスティン・オルメドはフリーダとアレハンドの親友でカチュシャスの一員であった。彼女はまだ絵画に習熟していなかったようで、左目が右目よりやや大きく描かれている。
ジャケットの中程には、アグスティンが「フリーダには1セントの価値もない」と言ったことを知って、フリーダが付けた傷跡が残っている。
フリーダは1922年メキシコの最高教育機関とされる国立予科高等学校へ進学した。女子として国立予科高等学校に入学したのはフリーダを含めてこの年に入学した35人が初めてであった。フリーダはこのとき14歳で、医学部へ進むための5年のコースを選択した。
自由と個性を主張したフリーダは本当の仲間とよべる友人たちと出会った。それが男子7人と女子2人からなる「カチュチャス」というグループだった。彼らは社会主義、ロマン主義、ナショナリズムを混ぜ合わせたイデオロギーを作り議論をしたが、政治よりも詩や文学に熱中した。
フリーダは父親の友人から絵画を習い、次第に画家への道を目指すようになった]。また、フリーダはカチュチャスのリーダーであったアレハンドロと恋仲になった。
アリージャ・ムライはフリーダの恋人であった写真家ニコラス・ムライ(1892~1965)の娘と思われる。ニコラス・ムライはハンガリー出身の成功した写真家でニューヨークにスタジオを持っていた。1931年にバカンスでメキシコにきたとき、フリーダと知り合い10年ほど恋愛関係が続いた。
フリーダは1929年にディエゴ・リベラと結婚し、彼がアメリカで壁画を制作していた1930年秋から1933年末までアメリカに同行した。二人は1931年の6月にメキシコに国立宮殿の壁画完成のために一度戻っている。
アリージャ・ムライは彼の娘だが、1922年に生まれ、1961年に亡くなったという。しかし、「Frida Kahlo」Gannit Ankori 著、 2013刊には、「 1941年の夏ニコラスが娘の19歳のアリージャを連れてフリーダの元を訪れたとき、アリージャは一人でベネズエラへ旅行して、現地で病気になり9月にニューヨーク亡くなった。娘の死を悲しんだニコラスはフリーダにアリージャの肖像画を依頼したが、フリーダは無視して描かなかった」という記事がある。
10歳の少女の肖像とは思えないし、よく分からない絵である。
年代不明。
一説には、1944年の作品とされる。エドゥアルド・モリーリョ・サファはフリーダのパトロンであった農業技師・外交官である。彼は、フリーダに依頼して彼の母・妻・子供たちの肖像を長きにわたって描いてもらった。彼が購入したフリーダの作品35枚はドローレス・オルメド・パティニョ美術館に売却された。
フリーダの静物画の多くには性的隠喩が込められている。中央のパパイヤは子宮に相当し、中では精子が泳いでいる。隣のサンゴ状のものは卵巣に似ている。
この作品はカマチョ大統領夫人が大統領宮殿の台所に掲げるものとして依頼したが、彼女は性的イメージを見て、受け取りを拒否した。
フリーダは1952年当時の所有者であったカルロス・シャベスに自身の展覧会のため、この作品を借り受けたが、結局返さなかった。
作風にはフリーダが敬愛していたメルセデス・サモンの影響がみられる。
1954年にフリーダは亡くなるが、晩年は共産主義者として党と革命に奉仕する信条を表現した。この絵画ではスターリンは聖人の位置に描かれている。1951年以降は痛みのため鎮痛剤無しでは生活がままならなくなり、特徴であった緻密なテクニックを駆使した作品を作り上げる事も難しくなっており、粗い仕上げとなっている。
1928年、フリーダは知識人や芸術家の集う活動サークルに参加し、メキシコ共産党へ入党した。結婚したディエゴも共産党員だったが、アメリカ各地で壁画制作をしたことが、共産党からは無節操な仕事ぶりととられて反感を買い、1929年に党員資格を剥奪された。この時、フリーダもあわせて離党手続きを行っている。
1936年にスペインで内戦が勃発するとフリーダは共和国側を支援するために同調者を募り、連帯委員会を創設して政治活動に再びのめり込むようになり、トロツキーが創設した第4インターに加盟した。翌1937年にメキシコへ渡ってきたトロツキー夫妻を「青い家」へ迎え入れ、1939年まで住居を提供したが、1939年には仲違いをして別れている。
その後1948年にフリーダは共産党への復党を許された。
フリーダは交通事故の後遺症のため骨盤の形が不都合であることを理由に医師から出産を禁じられていた。ディエゴと結婚した1929年に妊娠したが、中絶を余儀なくされた。1932年と1934年にも妊娠したが流産した。子供をもつ望みをフリーダが叶えることはついにできなかった。
1922年に国立予科高等学校入学して以来、当時はソカロから路面電車で1時間かかる郊外だったコヨアカンから通学していた。1925年9月17日の夕方、アレハンドロと一緒に乗っていたバスがソチミルコ発の路面電車と衝突した。衝撃によりバスの手すりが腹部と膣を貫通、骨盤、脊柱3か所、鎖骨、肋骨2か所が骨折した。フリーダは奇跡的に命をとりとめ、1ヶ月後に退院して自宅で療養生活を始めた。
交通事故後、自宅のベッドでの療養生活が始まり、父親は19歳のフリーダに絵具箱を贈った。彼女にできることは鏡に映る自分の姿を描くことだけだった。彼女の自画像はその姿や形以上に、自らの存在意義を問いはじめ、さらには美的探究に乗り出した女性の内面を描き出すことになる。
この自画像には療養中に本で知ったルネサンス期の影響がみられ、ブロンツィーノを思わせる高貴な気品があふれている。
明るい肌と背景の暗さという明暗法や、アールヌーボー風に波打つ海など、フリーダ独自の絵画様式が完成した。
この自画像は距離を置き始めたアレハンドロを引き留めるために1926年夏に描かれ、9月後半に彼に贈られた。しかし、彼の両親は二人を引き離すため、1927年3月に彼をヨーロッパへ旅立たせる。この作品は、出発前に保全のためフリーダのもとに送り返された。