フリーダ・カーロ博物館。2014年11月23日(日)。メキシコ・シティ。
晩年の作品で、彼女が亡くなったとき、まだイーゼルに架けられたままだった。
フリーダはマルクス主義者の象徴のような大きな手に抱かれ、革のコルセットと民族衣裳のテワナのスカートを着て、彼女の身体障害、文化遺産、政治的信条を表現している。
背景には平和な世界と、破滅的な世界が描かれ、マルクスの横にはヤンキー資本家が描かれている。
この絵の中では、彼女は奇跡的に回復し、トラウマから解放され、松葉杖を投げ捨て、赤い本を抱えている。
フリーダの最後の作品で、亡くなる8日前に、水気のあるスイカの果肉に、その苛酷な生涯の結論として「生命万歳」というメッセージを刻んだ。
晩年は鎮痛剤により満足な仕上げができなかった割に出来栄えがよいことから、メッセージは別として、作品そのものは1952年頃の制作ではないかという説もある。
フリーダが右足の切断手術を受けて療養中に制作された。担当医のファリル医師が田舎へドライブに連れていった。そのとき荒涼として時代遅れのレンガ窯がフリーダが関心を引いた。
のちに廃棄した自画像を描き始めたので未完成のままに置かれ、最近になって倉庫から発見された。
自
画像。デトロイト。未完成。1932年制作。
1930年にフリーダとディエゴは心機一転のためサンフランシスコに居を移した。ディエゴはサンフランシスコ証券取引所昼食クラブの壁画を制作し、世間から好評で迎えられた。1931年6月から11月に一時帰国したのち、ニューヨークとデトロイトへ向かった。ニューヨークでは近代美術館でディエゴの最初の回顧展が開かれ、デトロイトでは美術館の壁画を制作することになっていた。
当時は大恐慌の時代で、貧富の差を見せつけられ、フリーダはニューヨークのことを「不潔で居心地の悪い巨大な鶏小屋」と言ってののしった。
1032年4月に二人はデトロイトに着いて、デトロイト美術館の職員や壁画を手伝うメキシコ人移住労働者などニューヨークよりも温かい人々に出会い、心が休まった。
1932年7月4日の夜、妊娠していたフリーダは流産して、ひどい出血と痙攣に見舞われ、救急車でヘンリー・フォード病院へ運ばれた。フリーダは療養中に「ヘンリー・フォード病院」「フリーダと流産」などの自画像を描き続けた。