ブーファの丘。サカテカス。
2014年11月25日(火)。
教会や博物館のある広場。15時ごろ、ロープウェイ駅のある右の西側から頂上を目指したが、行き止まりになり、諦めて広場に着いた。左側には麓からの舗装道と駐車場があり、車で登ってくることができる。ここから見ると、左や中央の斜路を使って頂上へ登ることは可能だが、誰も登っていない。見つかるとまずいことになりそうなのでやめた。
広場には、メキシコ革命時の馬に乗った兵士像などが複数設置してある。このブーファの丘は激戦の地として知られている。
サカテカスの戦い。「サカテカスの占領」博物館。
④がブーファの丘、③がエル・グリリョの丘、その中間がサカテカスの街。
サカテカスの戦いは1914年6月23日に戦われた。1910年から1920年にかけてのメキシコ革命の時代にあたる。自由主義者のマデロ大統領がサパタ派など革命勢力内の分裂のため倒れると、1913年2月に保守派のウエルタ将軍が大統領となり、反革命政権が誕生した。カランサ派、ビリャ派、サパタ派などの革命勢力は再結集して、ウエルタ政権打倒をめざした。
サカテカスはメキシコ北部とメキシコ・シティを結ぶ鉄道の要衝であったので、ウエルタ大統領はバロン将軍を派遣して、サカテカスの守備を増強した。バロン将軍は約1万2千名の兵員を有し、大砲陣地を配備したブーファの丘、エル・グリリョの丘を2大陣地に、サカテカスを囲む高地に兵力を配置した。
パンチョ・ビリャの北部軍団は約2万人の兵員でサカテカスの攻略を開始した。
1914年6月23日10時にビリャ軍はブーファの丘とエル・グリリョの丘を重点的に砲撃し、攻撃を開始した。エル・グリリョの丘が13時にビリャ軍により占領されると、バロン将軍自身が守っていたブーファの丘も兵士たちが怖気づいたため、午後遅くには占領されてしまった。
バロン将軍たちは丘を下り、サカテカスの町へ退却した。ビリャ軍が無慈悲だと知っていた将軍は隣町のグアダルーペへの退却を命じたが、退路に待機していたビリャ軍により、撃滅されてしまった。バロン将軍指揮下の将兵のうち、約7千人が虐殺され、約5千人が負傷した。かろうじてバロン将軍がアグアスカリエンテスに辿りついたときは数百人の将兵しか残っていなかった。
ビリャ軍の損害は死者700人、負傷者1500人とされる。
1か月後の1914年7月にウエルタ将軍が退陣すると、カランサ派、ビリャ派、サパタ派は再び抗争を始めるが、1915年4月のセラヤの会戦でのカランサ軍のビリャ軍への勝利を経て、カランサが同年秋までに実権を掌握した。
ブーファの丘。広場。
ブーファの丘。教会と博物館のある施設。
「サカテカスの占領」博物館。
当時の武器。
「サカテカスの占領」博物館。
鉱山のトロッコ。
15時40分頃、ロープウェイ駅へ下る道の途中から、市街地へ下る踏み跡を見つけて下っていった。
ブーファの丘から下る。
洞窟と水溜まり。
ブーファの丘から下る。
割と広い踏み跡なので、迷うことはない。
ブーファの丘から下る。
ロープウェイが通っていく。
ブーファの丘から下る。
16時ごろ、市街地上端を通る舗装道路に到着。ここが登り口だが、案内標識はない。
洗濯屋。
オスタル「ビジャ・コロニアル」はユースホステルだが、洗濯機はなかった。前日、スタッフに尋ねて宿から丘方向へ15分ほど歩いて洗濯屋を見つけて、頼んでおいた。1kgあたり乾燥込みで15ペソと安い。
中南米ではまだまだ洗濯屋は健在である。コインランドリーは当然ながらない。
オスタル「ビジャ・コロニアル」の屋上テラス。
なかなか洒落ている。
カテドラルとエル・グリリョの丘中腹にあるテレフェリコ(ロープウェイ)の駅。
屋上テラスから。
ブーファの丘。
屋上テラスから。
翌日はグアダラハラへ。