チョルーラの古代ピラミッド遺跡「トラチウアルペトル」。
2014年11月29日(土)。
トトナカ文明の古代都市チョルーラは1519年にコルテスに制服されるまで、10万人の人口を数えて、アステカ王国の首都テノチティトランに次ぐ大都市であった。
その中心の宗教施設で大神殿が建てられていたピラミッドの現状は、頂上部に教会が建っている丘にしか見えない。
プエブラ市内からチョルーラ行きのバスに乗ったが、チョルーラのセントロが分からず、路線もピラミッドから外れていたので、西の山の麓の街外れであわてて降りた。地元の人に何度も道を尋ねて、セントロの教会に辿り着き、さらに東南のピラミッドの麓の北西隅交差点にようやく着いた。歩き方には地図はないので苦労した。
ピラミッドの想像図。右上方の山はイスタシワトル山。
ピラミッドの底辺は450m四方、高さ66mに及ぶ大規模なもので、テオティワカンの太陽のピラミッドをしのぐ、アメリカ大陸最大級の威容を誇っていた。
ピラミッドはケツァルコアトル(羽毛のある蛇の神)に捧げるため、紀元前3世紀から9世紀ごろにかけ、6段階の増築を経て完成した。
基底部はケツァルコアトルの彫刻で飾られ、頂上には神殿と下を突き出した鳥の顔の像があった。商業都市チョルーラでは、毎年ケツァルコアトルに捧げられる祭りが行われた。商人たちは男奴隷のうちで最も美しい者を選び、羽毛の服や宝石で飾り立て、40日間山海の珍味を食べさせる。彼は神とみなされ、町の中を練り歩き、人々は彼を拝みにやってくる。
祭りの当日の真夜中、彼は犠牲の石の上で胸を切り裂かれ、その心臓はケツァルコアトルの神像の前に捧げられた。
案内図。
ピラミッド内部の地下道の総距離は8kmにおよぶという。その内の700メートル、案内図上の右上部にオレンジ色の線に当たる部分を実際に歩いて見学することができる。
通路の入口は、北にある。
破線の黄色は徒歩で丘の上の教会へ行く遊歩道を示している。
ピラミッド内部の地下道。
通路は狭い。アメリカ人の団体の後ろを歩いた。
ピラミッド内部の地下道。
展示コーナーもある。
ピラミッド内部の地下道。
水平道と上部へ登る階段が交差する。
ピラミッド内部の地下道。
水平道と上部へ登る階段が交差する。
ピラミッド内部の地下道。
上部へ登る階段。
ピラミッド内部の地下道。
下部へ下る階段。
ピラミッド内部の地下道。
上部へ登る階段。
ピラミッド内部の地下道。
下を見下ろす。
ピラミッド内部の地下道。
昇る階段。
ピラミッド内部の地下道。
腰を下ろして階段を眺める見学者。
地下道の出口。
20分ほどで外へ出る。
東の遊歩道から頂上の教会を見上げる。
丘への階段を登る。
丘へ登るメインの歩道と合流する。
頂上の教会。
サントゥアリオ・デラ・ビルヘン・デ・ロス・レメディオス教会。1594年に着工され1666年に完成し、1864年に改築された。
教会前広場にある案内板。
1519年のスペインによる征服後、まず十字架がこの地に置かれた。しかし、1536年に落雷により、壊れてしまった。二番目、三番目の十字架も同じ運命に遭ってしまう。フランシコ修道会の会士たちが、頂上を掘り返すと埋蔵された先スペイン期の偶像が見つかった。
頂上テラスからの眺望。プエブラ方面。
左にイスタシワトル山らしい山肌があるが、雲が多くて気が付かなかった。
頂上テラスからの眺望。チョルーラ中心部方面。
中心部にはソカロ、市庁舎、ショッピングセンターがある。
チョルーラは、1519年に、スペインの征服者エルナン・コルテスが、「スペイン以外でこんなに美しい都市を見たことがない」と感嘆しながらも、徹底的に先住民の文明を破壊しつくした最初の場所である。ベラクルスから進軍したコルテスはトラスカラを降伏させ彼らを友軍として、その南方の都市チョルーラへ向かった。
チョルーラはアステカ王国と連携し、コルテス軍を奇襲しようと企んだ。コルテスの愛人マリンチエがその情報をつかんでコルテスに報告すると、コルテスは逆にチョルーラを罠にかける作戦を取った。
チョルーラの領主たちが、何も知らずに町の広場でコルテスに挨拶のためやってくると、コルテス軍は小銃と剣により、3000人のチョルーラ人を殺害した。
チョルーラ人と敵対していたトラスカラ軍が市内に乱入し、手当たり次第にチョルーラ人を虐殺し始めた。チョルーラ人たちは大ピラミッドへ向かって逃げた。敵が襲ってきたときに、ピラミッドの壁を開くと、水が流れて、敵を溺れさせるという言い伝えがあった。市民たちは素手で石壁を掻きむしって、ようやく壁に穴を開けたが、出てきたものは埃だけだった。多くの者は絶望してその場にへたり込んでしまったという。頂上に登った者たちも、スペイン軍の火矢により、火を付けられた木造の塔の中で死んでいった