メキシコ・シティから山越えで太平洋方向へ下る。
2014年11月30日(日)。
メキシコ旅行もあと2日。12月1日の夜には飛行機に乗らねばばらない。メキシコ・シティから早朝のバスでアカプルコへ、午後のバスでクエルナバカへ向かい、宿泊。12月1日午前のバスでメキシコ・シティへ向かい、北方面バスターミナル経由で午後からテオティワカン遺跡の見学という行程となった。
アカプルコ行きのバスは1週間前に購入しておいた。南方面バスターミナルからエステージャのバスで7時40分発である。宿を出て、6時30分頃メトロのイダルゴ駅に着くと、駅が閉鎖されていて驚いた。あわてて地上に出ると市バスは動いている。タクシーでもいいが高すぎる。交差点に停まっていたパトカーの女性警官に尋ねると、7時からの運行と分かった。日本の感覚だったので、ノーチェックだった。あとで歩き方を見ると、平日5時、土曜6時、日曜7時からとちゃんと書いてあった。
7時にイダルゴ駅から乗って、タスケーニャ駅に何分で着くのか、始発駅でもないのに、列車はいつ来るのかと不安になった。6時50分過ぎに、地上出口から入る人に付いて、入場すると、ほどなく列車がやってきた。タスケーニャ駅には7時20分過ぎに到着。バスの発車には、何とか間に合った。
太平洋岸のリゾート都市アカプルコ。
12時頃にアカプルコのエステージャ・デ・オロ社のターミナルへ到着。荷物を預け、地図上で1㎞ほどの支倉常長記念碑のあるビーチ方面へ歩いて向かった。クエルナバカ行きのバスは15時20分発なので、3時間ほどの観光時間となる。
アカプルコは有名なリゾート地であるが、現在はメキシコ人が主体の庶民的なリゾートになっている。海岸沿いにはホテルが並んでいる。
アカプルコのビーチ。
向い側に半島が見える。
アカプルコのビーチ。
アカプルコのビーチ。
アカプルコのビーチ。
アカプルコのビーチ。
メキシコ人がほとんどで欧米人や日本人はみかけない。
支倉常長記念碑のある日本広場。
日本広場は幹線道路とビーチに挟まれた場所にある。2010年日墨交流400周年を記念し、アカプルコ市がカラバリ・ビーチに開所した。入り口には、日本広場の由来を書いた石盤が設置されている。
日本広場開所の記念石板。
2010年7月5日。アカプルコ市長と日本大使の名、姉妹都市の千葉県御宿町や宮城県仙台市の紋章も刻まれている。
支倉常長記念碑。
支倉常長(1571~1622)の生誕400年を記念し、1972年、宮城県出身の彫刻家・佐藤忠良作の支倉常長像が青葉山に建立された。その後、慶長遣欧使節の寄港地であるアカプルコにも同じ銅像を建てようという機運が盛り上がり、宮城県、河北新報社、仙台市が共同でアカプルコ市へ寄贈して、1973年オルノス・ビーチに建てられた。
1997年、コステラ・ミゲル・アレマン大通りに移転したが、2010年に再度この地に移転した。
支倉常長の視線はビーチを背にして北のメキシコ・シティー方向へ向いている。
支倉常長を大使とする支倉使節団は、仙台藩主伊達政宗の命を受け、1613年10月乗組員約180名と共に、日本船サン・フアン・バウティスタ号で仙台領月ノ浦港から、メキシコ(当時ヌエバ・エスパーニャ)に向け出港した。支倉使節団の主たる目的は、日本・メキシコ間の直接の通商関係を樹立することにあり、併せて仙台藩領内でキリスト教の布教を行うための宣教師の派遣、及び世界有数の銀生産国であったメキシコの銀生産技術を獲得することにあったと見られている。
支倉一行は、約3カ月の航海の末、1614年1月、当時ヌエバ・エスパーニャ最大の港であったアカプルコ港に到着し、ヌエバ・エスパーニャ副王代理の出迎えを受けた。
1614年3月、支倉一行はクエルナバカ等を経由して首都(現在のメキシコ市)に到着。そこで副王やメキシコ大司教と会談すると共に、使節団員の一部が市内のサン・フランシスコ教会で洗礼を受けた。同年5月、一行の一部は、メキシコ市を出発、プエブラを経て、6月、ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア港を出航し、ハバナ経由でスペイン・セビリアへと向かった。
その後支倉使節団は、スペイン国王フェリペ3世、ローマ教皇パウロ5世との謁見を実現し、日本側の要望を伝え、各地で様々な歓迎を受けた。支倉使節団は1617年にメキシコに戻り、1618年にアカプルコからマニラに渡り、1620年にマニラから仙台に帰国した。
せっかくなので近くの売店の人に記念写真を頼むと、日本人かと言って快く撮影してくれた。
支倉常長記念碑付近の碑。
支倉常長遣欧使節団の概要を記したスペイン語石板。1972年。
支倉常長記念碑付近の碑。支倉常長像の右にある「日墨交通発祥記念之碑」。
2012年7月千葉県御宿町が寄贈した。 記念碑の高さは約9m。
日墨交通発祥記念之碑由来記。
嵐に遭遇したガレオン船サン・フランシスコ号が1609年(慶長14年)9月30日、御宿沖で座礁し、岩和田海岸(現田尻浜)に漂着した。岩和田の住民による人道的かつ決死の救助活動によって、フィリピン臨時総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・アベルーサら317名が命を救われた。
当時の岩和田の人口は300人程で、助かった人は300人以上、部落の生活は貧乏であったが、心のやさしい人々は自分のことよりも他人の難儀を救うために、大切な着物や、食べ物を分け与えた。
数日後大多喜藩主・本多忠朝が家来300人余りを率いてやって来た。忠朝はドン・ロドリゴに挨拶し、ロドリゴの手に接吻して友愛の情を示した。そして、家康の指示があるまで3百余人の食糧一切を供給することを約束した。一行は引き続き37日の間、岩和田で過ごした後、途中本多忠朝にお礼を述べ一泊してから、江戸へ出発した。
ロドリゴら一行は、「太子(秀忠)及び皇帝(家康)の宮廷にあがって報告をするよう申し渡され」、江戸では徳川2代目将軍に、駿府では家康に謁見した。家康は当時、大坂の豊臣方に対し、軍事力、経済力の増強を図る目的もあって、外国貿易に関心がありました。彼は三浦按針(家康の外交顧問を務めた英国人ウィリアム・アダムス)に命じて船を造らせ、ロドリゴらの帰国のために提供した。そして、スペインとの交流拡大のための使節を同乗させ、翌年8月、彼らをメキシコへ向けて送り出した。
やがて鎖国政策とともにロドリゴの存在も歴史の闇の中に埋もれる。ところが、明治の代となり、日本が欧米諸国とのいわゆる不平等条約に苦しんでいた時に、初めての平等条約が締結される。それが1888年(明治21年)の日墨修好通商条約であった。実現の背景には、はるか遠い昔の日墨友好の思い出があったという。
感謝の碑。日本の友だち協会。
2014年1月25日。日本大使館、ゲレーロ州政府、アカプルコ市、日墨協会などへ。
このあと、海岸通りを市バスに乗ってサンディエゴ要塞へ向かう。