平成27年11月6日(金)。14時に紀伊風土記の丘の岩橋千塚古墳群の見学を終え、日前宮へ向かった。大日山35号墳から見下ろすと、西近くに見えた森の中にある。土日の七五三参りに備えてテントが張られていた。
日前宮は日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の2つの神社の総称で、両社とも式内社(名神大社)、紀伊国一宮である。『日本書紀』に、天照大神が岩戸隠れした際、石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した鏡が日前宮に祀られているとの記述がある。社伝によれば、神武東征の後の神武天皇2年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あめのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡・日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。
日神(天照大神)に対する日前神という考えから準皇祖神の扱いを受けており、朱鳥元年(686年)には國懸神に奉幣したとの記事がある。現在の神主も紀国造家が継承している。
敷地は広いが、建物群の面積は小さい。大正15年から現在のように両神宮が左右対称に配置されたという。
日前宮は溝口神とも記された。紀ノ川南岸平野を潤す宮井川(名草溝)の古墳時代初期の開発時の取水口が神社に隣接しており、農地の開発に成功した紀氏が水利権を掌握したのが創始で、紀ノ川河口の港がヤマト政権の外港として機能していた5世紀後半から6世紀前半にかけて、国家的皇祖神に転化したとみられる。
日前宮を含む秋月一帯は秋月遺跡とよばれ、紀氏に関係した遺跡とされる。日前宮西側では、箸墓古墳と同時期(3世紀後半)の前方後円形の墓が見つかっている。
このあと、紀ノ川の北岸へ渡り、岩橋千塚古墳群の北にあたるJR阪和線紀伊駅西にある紀伊国府跡へ向かった。
府守神社の社伝では、貞観17年(875年)に紀伊国府の守護神として鬼門にあたる北東に鎮座したという。紀伊国府跡は、府守神社南西一帯にあったと推定されている。
紀ノ川の河口に近い北岸)、和泉山脈の南麓に延びる比高約30mの尾根上に所在。この墳丘は全長約70m高さ約9mの南西向き前方後円墳で、築造は5世紀後半ごろから6世紀初頭と考えられ、被葬者は、朝鮮半島へ遠征軍として赴いた紀氏一族の武将といわれる。
和歌山城方向。
現在の紀の川は、ほぼ直線的に西流し、和歌山市の湊付近で海に注いでいる。しかし、昔からそこに河口があったわけではない。紀の川の変遷をたどると、縄文前期頃(約5,000~6,000年前)の海面は現在より高かったため、和歌山平野の大半が浅海底となり、紀の川河口は和歌山市の岩橋山地の北側付近にあった。その後、和歌山平野は海面の低下・紀の川の沖積作用によって陸化していった。
古墳時代から平安時代の主流は、楠見付近から西へ土人川・和歌川の川筋を流れ、和歌浦へ注いでいた。11世紀ころ、紀の川は洪水時に主流を水軒川に変え、大浦へ注ぐようになった。その後、15世紀末の明応4年(1495)の地震・津波によって、紀の川は海岸の砂丘を突破し、ほぼ現在の流路の位置になった。
出土した石棺と馬冑。
これだけ、説明板が豊富な古墳はめずらしい。西近くの平井へ。
平井集落は、平安時代に「平井津」として知られ、戦国時代にも湊があった。この周辺は戦国時代の雑賀一揆の中心地で、その指導者の一人鈴木孫一の本拠地であった。集落内にある蓮乗寺は孫一道場ともよばれ、境内に「雑賀住 平井孫市郎藤原義兼 天正十七(1589)年五月二日」と記された墓がある。孫市郎は孫一重秀の子とされる。
木ノ本の車駕之古址古墳へ向け、西進する。古墳の場所は分かりづらい。小川を渡った児童館南の小公園となっており、駐車場はない。
車駕之古址(しゃかのこし)古墳は紀ノ川北岸の段丘上に築かれた5世紀中頃の前方後円墳で、大谷古墳に先行する紀ノ川北岸紀氏一族の首長墓とみられる。
墳長86m高さ8m、後円部直径51mで、墳丘は二段に築造され、南側に造り出しがある。古墳の斜面は拳大から人頭大の川原石の葺石で一面に覆われている。周囲には濠が掘られていて、濠の外周を含めた古墳の総延長は120mあり、県下の最大級の古墳である。
古墳の発掘調査から発見された金製勾玉は日本では唯一の遺品であるが、朝鮮半島でも新羅の王陵級の古墳に副葬される遺物である。
なお、墳丘復元の計画があり、想像図が掲載されている。
このあと、加太経由で大阪府岬町の道の駅へ向かった。