和歌山城。岡口門。重文。
平成27年11月7日(土)。和歌山市。
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和歌山城は羽柴秀吉が天正13(1585)年の紀州征伐のさい、現在地を自ら縄張りして、弟の羽柴秀長に与えた。同年秀長は藤堂高虎を普請奉行として普請に当たらせたが、大和郡山に移封されたため、桑山重晴に城代を命じた。関ケ原の戦い後、慶長5(1600)年に浅野幸長が転封された。浅野氏の時代に和歌山城の大手は城域の東南にあたる現在の岡口門から北東の一の橋に変更されて、岡口門は搦手門(裏門)となり、元和7(1621)年に徳川頼宣が行った城の大改修の際に再建された渡櫓門が現存している。
初代頼宣と14代茂承以外の藩主は、二の丸御殿に住んでいた。また、二の丸御殿は江戸城本丸御殿を模していたため、表・中奥・大奥に分かれていた。また、大奥があるのは、江戸城・和歌山城・名古屋城のみである。表は紀州藩の藩庁、中奥は藩主が執務を行う普段の生活空間、大奥は藩主の正室や側室たちの居所として機能した。現在、二の丸御殿の表・中奥に相当する場所は広場として開放され、大奥に相当する場所は芝生が養生され整備されている。
御橋廊下は、江戸時代には藩主とお付の者だけが藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来するために架けられた橋で、屋根を設け、外からは見えない造りになっていた。斜めに架かる橋としては、全国的にも珍しい構造である。平成18年復元。
堀のなかに浮かぶ釣殿「鳶魚閣」。
約11度の角度で斜めになっているため、滑り止めのために段差がつけられている。奥の出口まで歩くと、確かに二の丸とつながっていた。
江戸時代初期に、紀州藩初代藩主徳川頼宣が和歌山城北西隅の西之丸に隠居所の御殿と共に築いた池泉回遊式庭園である。虎伏山麓の斜面という立地を生かして湧水を利用した2段の池と瀧を設け、さらに内堀の一部をもう一つの池として庭園に取り込むことで広がりをもたせており、内堀の畔に池亭「鳶魚閣」を配することにより連続性を確かにしている。
友ケ島の見学を終えて加太港へ11時30分に着いた。和歌山市内の行程は本日限りとなる公算がったので、和歌山ラーメンで有名な井出商店は本日中に訪れようと思っていた。ただ、繁忙時間帯だと時間の無駄で駐車場がない可能性もあるので、先に和歌山県立博物館へ向かったが、何と休館だった。仕方なく、近くの和歌山城へ向かった。
30年ほど前に和歌山城天守閣、養翠園、和歌山城二の丸跡にあった昔の県立博物館は見学しているので、和歌山城は岡口門と最近復元された御橋廊下を見学する予定にしていた。
和歌山城南側の不明門から和歌山公園駐車場に入った。1時間200円なので、12時31分に入庫して、13時11分に出た。時間がまだ昼食時間だったので、和歌山市立博物館を見学した。大谷古墳出土の馬冑や雑賀の兜などを見学。特別展「表千家と紀州徳川家」も見学。藩主が造らせた御庭焼の茶碗類は眼福であった。14時15分頃になったので、井出商店へ向かった。
和歌山ラーメンの老舗として知られる。
JR和歌山駅の近く。駐車場に14時30分頃到着。数台の空きがあった。
店内も8割ほどの入りだった。カウンターに座った。横の男女は中国語を話していたが、店の人とのやりとりはまずまずの日本語で、帰りに駐車場から車で帰っていった。
和歌山の名物「早すし」や「ゆで玉子」がカウンターに置いてあり、自分で手に取って食べる。
早すしとは「鯖の押し寿司」で150円。腹が減っていたせいか、美味かった。
中華そば700円。
醤油豚骨のスープ、バラ肉のチャーシュー、メンマ、ネギ、カマボコ。
スープは濃厚でやや辛口。私の評価も辛口。
太田城は和歌山市太田にあった平城で、羽柴秀吉による「太田城水攻め」で有名である。紀伊太田城は延徳年間(1489~92年)に紀俊連が築城し、天正年間(1573~92年)に太田源太夫によって修築されたとされ、太田党の本城であった。1585年(天正13)、秀吉の紀伊侵攻に抵抗した太田党と根来・雑賀衆の残党ら合わせて約5000人が太田城に立てこもった。
秀吉軍は太田城を取り囲む総延長5~6kmにも及ぶ堤防を5日間で築き、水攻めを行った。籠城1ヵ月後、城主太田左近宗正ら太田一族は降伏し、首領ら53人が首を刎ねられ、みせしめのため大坂天王寺で晒し首にされた。
現在、太田城水攻めの堤防跡が一部残っている。遺跡の中心に位置する出水堤はJR和歌山駅東の出水地区にあり、太田城跡から約500mの距離を隔てて側面を向けており、基底部の幅31.0m、長さ45.0m、高さ5.0mを測る大規模なものである。
TSUTAYA出水店西にあるが、標識はないので、古老として紹介された付近の金魚屋さんに確認した。
貞享元年(1684年)10月21日、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として吹上邸で生まれた。
報恩寺の北50mにあるというので、捜したが分からなかった。地元の人に尋ねたら、警察署のある通りに面した角にあった。
学問の神様である菅原道真が祀られ、大宰府天満宮、北野天満宮とともに日本の三菅廟といわれている。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、和歌浦一円の氏神として尊崇されている。正面の楼門は一間一戸門としては最大級で、禅宗様を取り入れている。
まず、紀州東照宮へ向かったが、アクセスが分からなかったので、隣の和歌浦天満宮へ向かった。
浅野幸長は、慶長9年(1604年)〜同11年(1606年)にかけて天神山の中腹を開墾して社地を造成し、本殿、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建したが、これが現存する天満神社である。本殿奥や楼門前面の石垣も、この時造られたものである。再建された本殿、楼門など4棟が重要文化財に指定されている。本殿は桁行五間・梁間二間の入母屋造で、装飾性の豊かな桃山建築である。本殿、楼門等の建築や彫刻には、江戸幕府御大工棟梁の平内政信が関わった
中世まで、紀ノ川はこの和歌浦湾に注いでいた。神亀元(724)年、奈良の都を出発した聖武天皇の一行は紀ノ川を下り、この和歌浦湾に御幸した。その頃の和歌浦には島々が玉をつらねるように点在し、潮の満ち干きによって変化する千潟の風景があり、同行した宮庭歌人がたくさんの歌を詠んでいる。
嘉永4(1851)年に和歌浦の玉津島神社南に架けられた。紀州藩10代藩主徳川治宝の長寿を祈念して名付けられた。
2度目の訪問である。17時前であったが、茶会帰りらしい和服の女性たちで賑わっていた。
和歌浦方面の景観は30年ほど前より悪くなっているような気がした。
水が飲めるかと期待したが、飲めなかった。「吉祥水」「楊柳水」などの場所もすぐには分からず、暗くなったので諦めた。
和歌山市域の見学を終了したことにして、国道42号線経由で有田川町の道の駅「明恵ふるさと館」へ向かった。