平成27年11月8日(日)。和歌山県有田川町。
道の駅「明恵ふるさと館」で起床。本日は日曜日で雨天。広川町の「稲むらの火の館」が月・火休なので、湯浅と広川方面へ行くことにした。まず、道の駅から車で3分ほどの距離にある明恵上人生誕地を見学。
明恵上人生誕地は有田川の流れを間近に臨む場所にあり、康永3(1344)年の銘文をもつ卒塔婆と、上人胎衣塚と書かれた石碑が建てられている。
明恵上人は後鳥羽上皇により京都栂尾の地を賜り高山寺を創建した鎌倉時代前期の華厳宗の僧で、華厳宗中興の祖と称される。
承安3(1173)年、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として有田郡石垣庄吉原村(有田川町歓喜寺中越)で生まれた。
8歳のとき両親を失い、京都高雄山神護寺に文覚の弟子で湯浅宗重の子で叔父にあたる上覚に師事し、華厳宗を学んだ。のちに、仁和寺で真言密教、東大寺で華厳宗・倶舎宗の教学を、禅を栄西に学ぶ。しかし、23歳で紀伊国有田郡白上に遁世し、こののち白上山や筏立など紀伊国内を転々とし、耳を切り落とすなど厳しい修行を重ねた。
明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山した。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称された。また、法然批判の書『摧邪輪』を著した。寛喜4(1232)年遷化、享年60。
明恵紀州遺跡は、上人が没した後、弟子の喜海が上人の修行した草庵跡7ヵ所と誕生の地に木製の塔婆を建立したものが起源で、それらが腐朽したため勧進比丘弁迂(べんう)が一族を勧進し、砂岩製の笠塔婆を建立した。それぞれの塔婆は砂岩の一材から彫り出されたもので、高さは1.5mから1.7m。
奥の木の下に卒塔婆がある。その手前に歌碑がある。
「ふるさとのやとには ひとり月やすむ をもふもさびし 秋のよのそら」
湯浅町へ向かう途中に、宗祇屋敷跡へ立ち寄る。
宗祇(1421~1502年)は、室町時代の連歌師で、姓は飯尾というが定かではない。応永28年、紀伊藤波荘(有田川町下津野)で生まれたといわれているが、近江という説もある。
宗祇法師の産湯の井戸と伝わる古井戸がある。
左奥の国民宿舎「湯浅城」の南東にある右手前の丘陵が湯浅城跡である。城跡の南には山田川が流れている。案内説明看板は見当たらなかった。湯浅重伝建地区の「甚風呂」でガイドに確認し、「湯浅氏と湯浅町」垣内貞、平成21年という小冊子や簡単な図面を貰った。
湯浅は海陸交通の要衝であり、熊野参詣道の重要な中継地であったことは藤原定家の「後鳥羽上皇御幸記」にも記されている。
湯浅城は平安時代後期の康治2(1143)年に湯浅宗重に築城されたといい、代々湯浅氏が居城した。湯浅宗重は有田郡一帯に勢力を振るった武士団の祖で、平治元年(1159年)、熊野詣で紀伊国に来ていた平清盛に対し、藤原信頼・源義朝が挙兵して平治の乱が起きると、湯浅宗重は清盛に加勢して上洛し勝利を助け、平家方の有力武将の一人となった。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるが、宗重の子である上覚の師である文覚上人の仲介により、源頼朝に降伏して、鎌倉幕府の有力な御家人となった。子孫は紀州一円に所領を増やして湯浅党と呼ばれた。南北朝時代になると、湯浅党は南朝方となり、要害として知られた湯浅城は室町幕府軍から数度も攻撃された。守護の畠山氏は応永7(1400)年に湯浅城近くに広城を築き、鳥屋城、岩室城などを整えて、湯浅城を包囲した。文安4年(1447年)に畠山氏の攻撃を受けて落城し、後村上天皇の孫義有王をはじめ、湯浅掃部助、楠木氏残党の武将は戦死し、湯浅党は壊滅して各地に四散した。
道をそのまま西に進むと、湯浅伝統的建造物群保存地区に着く。
湯浅は中世にさかのぼる醤油醸造発祥の地といわれ、近世以来、有田地方の政治経済の中心地として栄えてきた。醤油と金山寺味噌の醸造のほか、漁業も盛んであり、熊野参詣道の伝馬所でもあるなど、さまざまな産業が発達した。
山田川の河口近く、川の南岸を東西に通る北町通り、南北に走る浜町通り、中町通り、鍛冶町通り沿いには伝統的建造物群が残り、「湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区」の名称、種別「醸造町」で、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
東西約400m、南北約280mの保存地区には醤油・味噌醸造業関係の町家や蔵など現役の古建築が多く残る。
山田川沿いに西進し、北西端の北恵比寿神社へ着いた。案内板を見て、北東端に駐車場が表示されているので、移動したら満車だった。近くの岡正休憩所という案内所で尋ねると、山田川北岸に広い無料駐車場があるというので、そこへ駐車した。当日は、まちなみ音楽会というイベントが開催されていたので、雨にもかかわらず、人出はあった。岡正休憩所から伝建地区を見学。
電柱は撤去するべき。途中、有田みかん1袋100円と、「太田久助吟製」商店で金山寺味噌を購入。
角長醤油職人蔵。慶応2年(1866年)築造の醤油仕込蔵。80㎡。北町通り。入場無料。
角長醤油職人蔵。醸造道具類。仕込み桶、締め木など。
角長醤油職人蔵。復元された麹室と諸蓋。
湯浅は全国の醤油のルーツの町である。
建長元年(1249年)、僧、覚心(法燈国師)が中国(宋)に渡り修行のかたわら径山寺味噌の製法を習って、同六年帰国し、のち紀伊由良(現在の由良町)の興国寺を建立し、在山すること四十余年、その間が金山寺味噌の始源であると伝えられる。水質が味噌醤油の製造に適していた湯浅町に伝えられた。
醤油はこの味噌製造の際、樽底沈殿した液汁、桶の上澄みに出てきた液汁等をすくい取って舐めてみるとこれが美味しかった。それでは、これを調味料として煮炊きに使用すればさらに美味しいということで、その製法が発達してきたのが、醤油の起源であるといわれる。
室町時代頃から湯浅醤油として商品化され、江戸時代には、徳川御三家紀州藩の保護を受け湯浅町の中心産業として発展し、享保年間(1716~36)に銚子・野田に進出したのをはじめ日本各地にその製法を伝えた。
写真を撮るのを忘れたが、焚口のレンガが明治時代風で優れていた。
湯浅は当日がイベントのためか、女性ボランティアが多くいた。湯浅城の件を話すと、小冊子などをくれた。
明治7年建築の醤油醸造家の主屋。
長大な間口に6つの虫籠窓がずらりと並ぶ主屋は、古くは醤油と漁網の販売をしていた。
このあと、熊野古道を通って、広川町の「稲むらの火の館」へ向かった。