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和歌山県広川町 稲むらの火の館 広村堤防 濱口梧陵墓 広八幡神社 由良町 興国寺 白崎海洋公園

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「稲むらの火の館」。和歌山県広川町。
平成27118日(日)。湯浅の伝建地区を見学したあと、旧熊野古道の狭い車道を通って、広川町の「稲むらの火の館」へ向かった。海岸部が湯浅広港湾とよばれているぐらいで、その距離は隣の集落といった近さ。別々の町になっているのが不思議なくらいだ。両町役場同士の直線距離も700mほど。
 
濱口梧陵記念館に入館すると、団体客と一緒に津波防災教育センターの3Dシアターへ案内され、現代の防災対策と濱口梧陵時代の再現ドラマの2本の映像を見たのち、防災センター、記念館の展示を見学した。安政南海地震は安政元年(1854年)に発生し、紀伊半島一帯を大津波が襲った。
濱口梧陵の再現ドラマで意外な点は、報道などにより稲叢の火が数百人の村人を救ったと思い込んでいたが、実際には津波で漂流していた9人だけだったということだ。
 
館の資料によれば、実話と小泉八雲の英文原作「リビング・ゴッド」、昭和12年文部省発行・小学校国語読本「稲むらの火」の内容とは違うところがいくつかある。当時35歳であった濱口梧陵は「老いた五兵衛」、稲むらに火を放った理由は漂流者に安全な場所を教えるためであったが、「村人に津波襲来を知らせるため」であったなど。
 
読本の原作を執筆・応募した中井常蔵は湯浅町生まれ、耐久中学校卒。当時南部小学校教員であった。文部省の読本が実際と違うのは「一太郎やーいhttp://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/24713302.html」と同じで、都合のいいように史実を歪めており、幕末明治の偉人である濱口梧陵にたいし画竜点睛を欠く扱いとなっている。
 
濱口梧陵記念館は濱口家が町に寄贈した邸宅を改修して2007年にオープンした。濱口梧陵(18201885)はヤマサ醤油の当主で7代濱口儀兵衛。初代濱口儀兵衛が紀州・広村から銚子に渡り、ヤマサ醤油を創業したのは1645年(正保2年)で、濱口家の家長は代々、広村にある本家と銚子を行き来していた。
 
濱口梧陵は幕末に紀州藩勘定奉行となったほか、のちに耐久中学校となる私塾「耐久社」を設立。明治41871)年に大久保利通の命を受けて駅逓頭に就任、同時に和歌山県大参事。明治121879)年に和歌山県議会初代議長に選任された。
明治181885)年、梧陵の念願であった欧米への視察途中、ニューヨークにて永眠。遺体は防腐処置を施されて海を渡り、福沢諭吉、勝海舟らが横浜で会葬を営んだ。
なお、幕末に広村の民による「濱口大明神」建立計画があったが、梧陵はこれを取りやめさせた。
 
記念館の見学を終え、再度激しくなってきた雨の中、濱口梧陵関連の史跡を見学し、まず耐久中学校付近の広村堤防南端部へ向かった。
 
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広村堤防。国史跡。
濱口梧陵は、津波から村を守るべく、長さ600m、高さ5mの防波堤の築造に取り組み、後の津波による被害を最小限に抑えた。
安政地震による被害により、広村住人の多くが家や職を失い、津波の再来におびえて、他の村へ移住する者も出るようになった。梧陵は、同志と大堤防の築造を決意し、紀州藩に上申書を出し、高さ約4.5m、長さ約900mの堤防を造る許可を求め、工事費用は梧陵が負担するとした。
安政21855年)年2月から堤防工事が始められた。工事は主に広村の村民の手によりおこなわれた。元々、梧陵の堤防建設計画には、津波で職を失った村民に堤防建設という仕事を与えて生活を安定させることで、村人の流出を防ぐという目的もあった。
工事は安政51858)年12月まで続けられ、堤防の長さは約670mとなった。費用はすべて梧陵が調達した。
 
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広村堤防。
根幅20mの堤防頂部は幅2mほどの歩道となって北へ続いている。
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広村堤防中央部。
左に感恩碑。中央道路両側には通称・赤門とよばれる鉄製の防潮扉が設置されている。
 
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感恩碑。広村堤防中央部付近。
昭和8年に広村堤防の傍へ濱口梧陵の偉業と徳を讃える感恩碑が村民により立てられた。
 
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濱口梧陵墓。国史跡。
広村堤防南西の山の崖下にある。生垣に囲まれて見えないほど小さい。
 
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濱口梧陵墓。
文部省の案内板が異常に大きい。昭和12年の国定教科書採用の翌年に広村堤防とともに史跡に指定されたが、現在の基準でいえば史跡とするほどのものではないであろう。
 
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広八幡神社。楼門。重文。
濱口梧陵や広村の村民たちが避難した場所である。想像していたよりも低地にあったが、海岸線や川から離れているので、安政南海地震や昭和南海地震のときも津波の浸水被害は受けていない。
広八幡神社は広村の産土神で、本殿・拝殿・楼門は室町時代の建造とされる。本殿は修復工事中であった。
 
1415分ほどになり、これから海南市の見学をしても中途半端になるので、金山寺味噌発祥の地とされる由良町の興国寺を訪れたのち、白崎の道の駅へ向かうこととした。
 
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興国寺。由良町。
臨済宗興国寺の開山は心地覚心(のち法燈国師)。興国寺は源実朝が暗殺された後、側臣頭だった葛山景倫が出家して高野山で得度し、願性と名乗り、北条政子からもらった由良の地に、安貞元年(1227)真言宗「西方寺」を建立したのが始まりである。
願性は高野山の金剛三昧院の雑掌職(寺務長)も兼務し、同寺に入って来た覚心入宋の援助をした。
覚心は建長元年(1247)、宋へ渡り、六年間の修行後、杭州護国寺の無門恵開禅師から禅の印可をもらって帰国した。覚心は帰国後、願性に請われて住職となり、西方寺は臨済禅寺院となった。西方寺と覚心は、のちに後村上天皇から「興国寺」号を、後醍醐天皇から法燈円明国師号を追贈され、臨済宗法燈派の本山として大いに栄えた。羽柴秀吉の紀州攻めにより、伽藍の大部分を焼失し、慶長6年紀州藩主浅野幸長により再興された。
法燈国師が渡宋中に習って来たという金(径)山寺味噌・醤油、普化尺八(虚無僧)の元祖寺として知られ、現在でも普化尺八を継ぐ者は必ず本寺で授戒することになっている。
 
境内近くに駐車場があるのを知らず、道路横大門から雨が滝のように流れる石段を上がった。このあと、衣奈から海沿いに道の駅「白崎海洋公園」へ向かう。
 
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道の駅「白崎海洋公園」。由良町。
このあたりの白崎海岸一帯は25000万年以上前の古生代にできた白い石灰岩でできている。
風光明媚な海岸美は万葉集にも詠まれている。
石灰岩内部の洞窟は第二次大戦中は特攻潜水艦・人間魚雷の基地として使用され、戦後は石灰岩の採掘場となったが、現在は海洋公園となっている。
 
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白崎海洋公園。岬付近。
 
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白崎海洋公園から太平洋を眺める。
雨が止んで、青空が見えてきたので、ダイビングスクール奥の展望台に登ると、大パノラマが広がっていた。天気が良ければ、遠くに淡路島や四国まで見渡せる。
 
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展望台の展望案内図。
徳島方面は意外と近い。翌日は海南市方面へ戻っての見学。

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