平成27年11月9日(月)。和歌山県海南市下津町。
長保寺は長保2(1000)年一条天皇の勅願で書写山円教寺開山性空により開基されたと伝わる。本堂・多宝塔・大門が国宝で、この3棟が国宝建築というのは奈良の法隆寺と長保寺だけで、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての仏教建築がまとまって残されている点で貴重である。
寛文6(1666)年に紀州藩初代徳川頼宣により紀州徳川家の菩提寺に定められ、境内東斜面には広大な藩主廟所があり、将軍となった吉宗・慶福(家茂)を除く13人の歴代藩主が眠っている。
周囲が山に囲まれ要害堅固であるという頼宣の言葉が残されおり、万が一の時は和歌浦から下津港へ海路をとり長保寺を最後の砦とすることを考えていたとも、和歌山城下から適度な距離があり、戦乱が及ばない神聖な場所に墓所を置くという考えであったともいう。
本日は、由良町の白崎海洋公園で起床し、海南市方面へ北上した。年中無休の寺社・山城を見学。
南北朝時代の嘉慶2年(1388年)の建築。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺、南面。
扁額は妙法院堯仁親王筆。尭仁法親王(1363-1430)は後光厳天皇の第六皇子で第142代天台座主。
平成24年に多宝塔とともに修復工事が施工された。
本堂は鎌倉時代末期の延慶4年(1311年)の建築。桁行5間、梁間5間、入母屋造。多宝塔は南北朝時代の正平12年(1357年)の建築。本瓦葺。
多宝塔横の歩道から紀州徳川家歴代藩主墓所へはすぐに登れる。ただし、本堂裏手の山腹に5段構えで展開しているので、最下部の8代・2代・14代・初代の墓所のみ見学した。藩主廟所としては全国一の規模というが、岡山県備前市の岡山藩主池田家墓所より楽である。
徳川光貞は寛永3(1627)年に生まれ、宝永2(1705)年に80歳で没す。初代徳川頼宣の長男。寛文7(1667)年2代藩主となる。4男が徳川吉宗。
8代徳川重倫は延享3(1746)年に生まれ、文政12(1829)年に84歳で没す。第7代藩主徳川宗将の次男。明和2(1765)年藩主となる。二男は10代藩主徳川治宝。
各墓域は急峻な山腹を削り、城郭の石垣と見まがうばかりの砂岩の石垣により、上下壇を作り出している。上壇の中央には花崗岩の広い基壇を築き、四周に瑞垣をめぐらし、正面中央に廟門を構え、基壇中央に墓碑を建て、その背面には5本の木製卒塔婆を挿入できる穴をうがち、上壇の正面にも瑞垣を建て、下壇と区画している。下壇は参道より高い石垣で区画され、正面中央に石階段を設け、一間の門を構え、さらに上壇まで砂岩製石畳の参道がつづき、上下壇の正側面には多数の大きな灯篭を置き、この形式を基本形としている。
墓碑を形式によって分類すると、無縫塔は1、6、7代、角柱(棟型角柱を含む)は2、3、4、9、14、15代、八角宝塔は8、10、11、12代になる。墓碑銘については6代まではすべてを無銘で、7代からは正面に院号と両側面に没年時を刻んでいる
初代・2代・3代・4代・6代の藩主の墓碑の前後左右、台座にも全く何も刻まれていない。これが長保寺の墓碑の大きな特徴である。
ひとつには、高貴な身分の者は他と墓を区別する必要が無いため墓碑銘を刻まない作法があって、これに倣ったためと考えられる。
また、紀州徳川家の言い伝えでは、万が一、戦が起った時、簡単に墓が敵に暴かれないよう用心のため、どこが誰の墓かわかりにくくするためであったともいう。
徳川茂承は天保15(1844)年に生まれ、明治39(1906)年に62歳で没す。伊予国西条藩第9代藩主松平頼学の六男として生まれる。安政5(1858)年に藩主となる。明治2年の版籍奉還により和歌山藩知事。
徳川頼宜は慶長7(1602)年に生まれ、寛文11(1671)年に70歳で没す。徳川家康の十男。元和5(1619)年紀伊国和歌山藩55万5千石初代藩主となる。
何故か、鳥居は低い。
正面。
左横から。
下へ石段を下り、位牌が安置されている霊屋の前を通って、本堂下に出た。15分ほどの見学であった。国道42号線へ戻って、北にある善福院へ向かった。案内標識はあるが、狭い山道の車道を通る。
天台宗。善福院は中世に当地の在地武士層の信仰を受けた広福禅寺の塔頭の一つとして、承久3(1221)年に創建された。七堂伽藍を有していたが、釈迦堂が現存するのみである。
釈迦堂は、功山寺仏殿とともに鎌倉時代の禅宗様建築を代表するもので、国宝の指定を受けている
桁行三間、梁間三間、一重裳階付、寄棟造、本瓦葺。
組物を柱上のみならず柱間にも密に配する点、内部の架構などに禅宗様の特色がみられる。日本に現存する禅宗様仏殿としては、功山寺仏殿とともに最古例の一つである。
堂内は土間(瓦敷)とし、天井は中央の方一間を鏡天井、その周囲を天井板を張らない化粧屋根裏とする。
堂内に安置する釈迦如来像に嘉暦2年(1327)年の銘があり、釈迦堂の建立も同年頃とみられる。
このあと、藤白神社へ向かい、熊野古道の一部を歩いた。