平成27年11月9日(月)。和歌山県海南市。
海南市の善福院から国道を北へ進み、案内標識から側道のような狭い道へ進入し、小高い丘を登ると藤白神社境内東入口の前を通り、神社裏の駐車場に着いた。
藤白神社は熊野古道紀伊路「藤白坂」の入口にあり、中世熊野信仰が高まる中で、この地に熊野一の鳥居が建てられ、熊野三所権現遥拝の場所となった。古来は藤白王子とよばれ、熊野九十九王子中最も格式の高い五体王子の一つで、熊野聖域への入口として崇敬された。
社伝では斉明天皇が牟婁の湯(白浜湯崎温泉)に行幸の時に神祠を創建したという。
本殿右横にあるこの堂の内部には、県内には数少ない熊野三所権現の本地仏3体が祀られている。左から熊野那智大社の千手観音像、熊野本宮大社の阿弥陀如来像、熊野速玉大社の薬師如来像で、いずれも平安後期の作である。
左右には、藤白若一王子の本地仏である木造十一面観音立像や毘沙門天および不動明王三尊像が安置されている。
歴代上皇法皇の熊野御幸は延べ140回にも及ぶが、当社に必ず休泊し、歌会・里神楽・相撲などの奉納が行われるのが通例であった。
藤原定家は建仁元(1201)年『後鳥羽院熊野御幸記』10月9日「天晴 朝出立頗る遅々の間 王子御前に於て御経供養等有と云々 白拍子の間 雑人多く立隔て路無し 強に参る能はず 逐電し藤代坂を攀じ昇る 五躰王子 相撲等ありと云々」と記している。
同日、藤代王子和歌会、詠二首倭歌(題深山紅葉 海辺冬月)の後鳥羽院の詠草は国宝「熊野懐紙」として残り、境内に歌塚と歌碑が建つ。
境内の千年楠を子守楠神社として祀り、古来畿内各地から子が生まれた時、祈願して、楠・藤・熊の名を受けると長命して出世するといわれた。紀州が生んだ巨人、南方熊楠もその一人という。南方熊楠は和歌山市生まれなので、田辺市の南方熊楠顕彰館で尋ねたところ本当だといわれた。
境内東入口から出て、東へ200mほど進むと鈴木屋敷がある。
全国で200万人を超すといわれる苗字鈴木氏の発祥の地とされる。平安時代末期、藤白王子は熊野別当の支配下にあり、熊野八庄司(武士団)の一つ鈴木氏が藤白に移住したという。鈴木氏は藤白神社の神官となり、その後、122代で断絶する昭和17年まで鈴木屋敷に鈴木氏が住んでいた。
衣川で源義経と討ち死にした家来の鈴木三郎重家・亀井六郎重清兄弟も藤白の出身である。
熊野神社が多く勧進されている東日本に鈴木姓が多い。鈴木を名乗る神官たちは全国に渡り、熊野信仰とともに各地に根付いた。そして、信頼を集めた鈴木氏にあやかり、また熊野への憧れを込めて、多くの人々が鈴木姓を名乗るようになったといわれている。
屋敷は荒廃が進んでいる。
屋敷は上皇や法皇の熊野御幸の際には御宿泊所として供された。
室町時代作と伝える曲水泉庭園が、朽ち果てようとしている屋敷の座敷前にある。
駐車場へ戻り、登山靴に履き替え、傘を持って、藤白神社の境内西通用口から南西へ、熊野古道を歩くと、有馬皇子の墓は近い。