平成27年11月9日(月)。和歌山県海南市。
熊野古道・藤白坂を往復して、藤白神社の駐車場で、大野城跡へのアクセスをネットで検索する。事前には雨の森森林公園から、大野小学校の南作業道からアクセスと調べてはいたが、ナビで見ると、雨の森はなく、逆に城跡南下まで車道があるので、善福院方面まで戻るコースを取ることにした。30分以上かけて、かなり山の上まで登った狭い道でミカン農家の人に尋ねると、大野城には行く道はないといわれた。間違ったと悟り、大戻りして国道370号線を東に進み、大野小学校へ向かった。
大野小学校の教職員駐車場に作業道入口があったが、崩壊により通行止めとなっていた。小学校の受付に行き、尋ねても分からず、その場で海南市教委に電話したら、雨の森から林道経由で行って下さいという回答を得た。受付の先生が海南高原ゴルフクラブへ行く途中に雨の森へ行く道があると教えてくれた。手持ち地図には雨の森陶芸の里も大野城跡もあるが、ナビにはない。
国道370号線を東進し、ゴルフクラブ方面への狭い山道を登ると間もなく雨の森への案内標識があり、西へ山道を登ると、陶芸の里があり、さらに登ると小公園があり、若い男女が車の横で料理を作っていた。さらに奥へ進むと、大野小学校から南へ続く作業道との合流地点に、15時45分鳥獣保護区の案内看板を見つけた。
市教委の担当者が教えてくれたように、さらに西へ平坦な舗装道を進むと、舗装はなくなり、荒れた道になった。落石・枝や起伏も多いが、通行は可能だった。10分ぐらい進むと、終点に着いた。その手前に大野城跡への登り口はあるはずだが、見逃してしまった。5分ほど戻って、Uターンし、慎重に山側を見ていくと、林道と別れて上へ登る踏み跡を発見した。看板はあるが、見づらくなっていた。昼から雨が降っていて、暗かったせいもある。
帰りに良く見ると、崖側の10m先に大野城祉入口という看板もあった。何れも、先ほどは気づかなかった。林道終点手前300mほどの地点。
林道の登城口から尾根下の巻道をたどると、5分ほどで、東城への登り口に着いた。大野城は東城と西城に分かれていたので、左に行けば西城かもしれない。正面に道が続いているのは、林道終点からの道かもしれない。右の坂道を登ると2分ほどで頂上の大野城跡に着いた。
本城である東城跡は標高436mの地点にある。北の方角のみ刈り取りがあり、晴天であれば海南方面が見えるのかもしれない。金属製の案内板があるが、文面は紫外線により全く残っていない状態であった。
大野城は、藤白山系の峰に築かれた代表的な中世時代の山城である。南北朝時代、紀伊では南朝の勢力が優勢だった。足利義満は紀伊守護細川業秀が南朝軍に敗北すると、永和4(1374)年に守護を山名義理に代えて、紀伊平定に当たらせた。このとき、守護所を府中から大野に移し、砦を整備して大野城を築城したとみられる。山名義理らは、湯浅一族や隅田一族らを制圧した。
明徳の乱(1391年)で山名氏は失脚し、大内義弘が紀伊国守護となったが、応永の乱(1399年)で敗れて、畠山基国が守護となった。基国は応永8(1401)年に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせた
大野は、熊野街道、高野街道や熊野灘の海上交通の要であり、大野城は重要拠点であった。
16時30分になり、雨のため暗くなった。海南ゴルフクラブ方面への道路に戻り、山間部の道をそのまま南進し、有田川町の道の駅「明恵ふるさと館」へ向かった。
11月10日(火)。道の駅「明恵ふるさと館」からほど近い金屋中学校へ向かう。8時30分頃に正門に着くと、教員がいて、県立自然博物館の車列を受け入れていた。鳥屋城跡へのアクセスを尋ねると、学校横の車道を数百m登ると、トイレのある空き地があるとのこと。駐車スペースは狭いが何とか駐車できた。
春は桜公園となる一角から遊歩道を登る。整備されているが、距離は長い。樹木が少ないので展望は良い。途中から見下ろすと、中学校のグラウンド、蛇行する有田川が見える。北西方面に山並みの切れ目があるので、選地されたのかと想像した。
稜線伝いの道を進み、30分ほどで本丸跡に着く。山頂への分岐道があるので城跡は山頂ではない。
西有田から四国、淡路を一望することができるという。
鳥屋城は古来から軍事上要害の地として重視された。鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃に湯浅宗基によってこの地に石垣城を築いた。か応永7年(1399年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国すると、その弟の畠山満国が城主となり外山城と改められた。その後、鳥屋城と改められ畠山氏の一族や守護代神保氏等が城主となり、畠山氏は、広城を本城として、岩室城と鳥屋城を支城としていた。天正13(1585)年羽柴秀吉に攻略され落城した。
このあと、道の駅「明恵ふるさと館」で有田ミカンを購入。有田川沿いに高野街道を東進して、護摩壇山方面へ向かう。