1.箸墓古墳と大市墓。白石太一郎。
箸墓古墳出現の意味するもの。奈良盆地東南部に営まれた6基の倭国王墓の中でも最古の古墳。
古墳時代において日本列島各地の首長たちが形成していた政治連合をヤマト政権、その連合の中枢を担った近畿中央部の政治勢力をヤマト王権とよびわけて考える。
卑弥呼が倭国王として君臨した邪馬台国連合と、それに続く初期ヤマト政権とは、それが統括する領域についても、また日本列島における初期の国家形成の段階としても、明らかに異なる時代である。
魏志倭人伝によると、3世紀前半の日本列島には、近畿中央部の大和に中心のあった邪馬台国を中心に29か国が政治連合を形成していた。
この時期、この邪馬台国連合のさらに東方に、おそらく濃尾地方に中心のあった狗奴国を中心とする狗奴国連合ともいうべき、もう一つの政治連合が形成されていたと考える。その範囲は滋賀県から関東地方に及ぶ東日本各地に大規模な前方後方形墳丘墓が広範に造成されている範囲と想定される。
魏志倭人伝によると、正始8(247)年、邪馬台国は狗奴国と争ったと魏の帯方郡に報告している。これは、邪馬台国連合と狗奴国連合の戦いであり、その結果は邪馬台国連合の勝利、ないしその主導による和平に至ったことは疑いない。
この結果、東日本が倭国連合に加わり、列島中央部が一つの政治的まとまりを形成し、この政治連合に加わった各地の首長たちの共通の墳墓として定型化した古墳の造営が始まった。本来の構成員が営んだのが前方後円墳で、旧狗奴国連合のメンバーが営んだのが前方後方墳であった。
卑弥呼は狗奴国との争いとほぼ時を同じくして没し、その後の混乱期を経て、後継者の台与が初期ヤマト政権の盟主である倭国王の地位に就いたものと思われる。箸墓古墳を造営したのは、卑弥呼の後継者の台与であることは疑いない。
箸墓古墳に次いで営まれた西殿塚古墳が、台与の墓である可能性は大きい。
2.西殿塚古墳が提起する課題。今尾文昭。
西殿塚古墳は山辺・磯城古墳群の中でも第二番目に築造された古墳時代前期前葉の大形前方後円墳であり、宮内庁のいう6世紀初めの継体天皇妃手白香皇女の墓とするには無理がある。
西殿塚古墳の西側にある西山塚古墳が手白香皇女の墓と想定される。
3.誉田御廟山古墳(現応神陵)の被葬者。白石太一郎。
誉田御廟山古墳の造営年代。円筒埴輪。第Ⅳ段階。焼成法が窯を用いない野焼きから須恵器の影響を受けて窖窯を利用した焼成法に変化する。畿内地域最初の使用例が誉田御廟山古墳。最近の考古学・年輪年代学によると5世紀の第一四半期。
11世紀中頃に誉田八幡宮が成立したとされる。八幡神崇拝の対象は神社ではなく山陵であった。河内源氏の祖源頼信の告文。永承元(1046)年。六角形の三昧堂が古墳後円部上に建てられた。
誉田御廟山古墳(現応神陵)の被葬者。
律令制国家形成期から応神天皇陵とされてきた。
岡ミサンザイ古墳(現仲哀陵)から出土する円筒埴輪は第Ⅴ段階のもので、5世紀後半~末葉。応神天皇の父である仲哀天皇陵とは考えられない。
文献史学上から、井上光貞は応神天皇の在位を370年~390年頃と想定。直木孝太郎は4世紀末~5世紀初めと想定。
応神天皇陵と考えられる。
誉田御廟山古墳応神陵説の提起する問題。大仙陵が仁徳陵である可能性は大きくなる。
ヤマト政権の大王墓。12基。
3世紀中葉過ぎから4世紀中頃まで。
箸墓古墳(桜井市)→西殿塚古墳・現手白香皇女衾田陵(天理市)→外山茶臼山古墳(桜井市)→メスリ山古墳(桜井市)→行燈山古墳・現崇神陵(天理市)→渋谷向山古墳・現景行陵(天理市)。
4世紀後半。
宝来山古墳・現垂仁陵(奈良市)→五社神古墳・現神功皇后陵(奈良市)。
4世紀末葉以降。仲津山古墳・現仲津媛陵(藤井寺市)→上石津ミサンザイ古墳・現履中陵(堺市)→誉田御廟山古墳・現応神陵(羽曳野市)→大仙陵古墳・現仁徳陵(堺市)
百舌鳥古墳群。反正陵は小規模の田出井山古墳に治定されている。大王墓級の規模である土師ニサンザイ古墳の存在。円筒埴輪は上石津ミサンザイ古墳が第Ⅲ段階、大仙陵古墳は第Ⅳ段階、土師ニサンザイ古墳は第Ⅳ段階後期。
考古学的には上石津ミサンザイ古墳が仁徳陵、大仙陵古墳が履中陵、土師ニサンザイ古墳が反正陵になるが、大仙陵古墳=仁徳陵説と矛盾する。
大王墓が古市古墳群と百舌鳥古墳群の間で交互に営まれていた。
記紀の陵墓の記載、王統譜に誤りがある可能性。
応神天皇が河内政権の最初の大王であろうとする説は成立し難い。応神天皇以前に大阪平野に王墓を営んだ大王として、古市古墳群の仲津山古墳と百舌鳥古墳群の上石津ミサンザイ古墳の被葬者の二人がいたからである。
河内・和泉の勢力が大王権を掌握したことが、大王墓造営に反映した。4世紀後半、高句麗が南下して東アジアの情勢が変化した。邪馬台国以来の呪術的・宗教的性格の強い大和の王権では対応できす、朝鮮半島などとの外交や交易を担当していた大阪湾岸に近い河内・和泉の勢力が王権内のリーダーシップを担うにいたった。応神天皇は河内王家の三代目の大王であった。
4.継体天皇陵と今城塚古墳。森田克行。
地震・葺石・排水溝。
たくさんの埴輪。二本マストの停泊船(港の象徴)、鵜飼。
摂津、淀川・木津川の水運、仁徳大王の淀川政策は淀川河口部の整備、茨田堤・難波堀江。
継体大王は淀川水系全体の整備。樟葉宮、筒城宮、弟国宮を淀川・木津川の岸に置く。
百済救援の基地。
5.欽明陵と敏達陵を考える。高橋照彦。
欽明陵。現欽明陵は平田梅山古墳(明日香村)
見瀬丸山(五条野丸山)古墳(橿原市)が欽明陵の候補地。
日本で最長の横穴式石室。墳丘長310mを超え、奈良県最大。6世紀後半と7世紀初めの石棺。
平田梅山古墳。6世紀後半。
見瀬丸山古墳。森浩一が欽明陵説。和田萃が宣化陵説。小澤毅が蘇我稲目説。
文献では檜隅坂合陵。東漢氏とその中心氏族坂上氏の存在。
坂合は「さかい」。軽境。見瀬丸山古墳の所在地。
見瀬丸山古墳のすぐ東に植山古墳。推古のもともとの墓の可能性。
敏達陵。現敏達陵は太子西山古墳(太子町)。
日本書記に敏達母、欽明皇后の石姫の古墳に埋葬と記される。6世紀後半、規模も妥当。
母の古墳に合葬は異例。死後6年後に埋葬と長期間。
平田梅山古墳。石舞台古墳と同じく貼石で葺かれている。日本書記、延喜式にいう「檜隅陵」。
本来の敏達陵の可能性。
6.天武・持統陵(野口王墓古墳)の意義。今尾文昭。
横口式石槨。玄室の長さ420㎝。高松塚古墳、キトラ古墳と比べ格段に大きい。
八角墳の意義。高御座との関連。