太田茶臼山古墳。大阪府茨木市。2013年11月26~28日にかけ、大阪府の古市古墳群・三島古墳群などを見学した。11月25日(月)13時過ぎに名古屋市守山区の自宅を出て、一般国道経由で道の駅平群に17時頃到着。
11月26日(火)。真の継体天皇陵・今城塚古墳などのある三島古墳群へ向かい、太田茶臼山古墳、今城塚古代歴史館、今城塚古墳、闘鶏山古墳、新池埴輪製作遺跡、阿武山古墳、安満宮山古墳の順に西から東へ見学した。各古墳の評価は「今城塚と三島古墳群」の著者森田克行氏の説が現状では正しいと思われる。三島古墳群は淀川右岸の高槻市・茨木市に所在する。
太田茶臼山古墳には9時30分前に周辺に着いたが、拝所の位置が分からず、南側の道路へ入り、ようやく拝所を発見した。清掃時間のためか、駐車場は開いていた。これは運がよかったというべきで、他の天皇陵では駐車場は閉鎖されているのがほとんどであった。
太田茶臼山古墳。前方部中央に拝所がある。全長226mと三島古墳群では最大の前方後円墳で継体天皇陵に治定されている。「今城塚と三島古墳群」森田克行著によれば、築造時期は5世紀中頃で、継体天皇の没年531年と大きく齟齬する、一方、1.5凖譴砲△觝城塚古墳は6世紀前半の築造であり、真の継体天皇陵であることがほぼ確定している。
太田茶臼山古墳と誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の形状比較図。今城塚古代歴史館展示。同じ設計図で築造されたと思われる古墳同士は相似墳といわれる。太田茶臼山古墳は誉田御廟山古墳の二分の一の大きさである。同形式・同規模の古墳は3基あり、古市墓山→太田茶臼山→市野山の順で築造されたことが明らかになっている。
被葬者は在地の首長ではなく、ヤマト政権の三島地域へのテコ入れとして、政権の一端を担う権威とステータスを獲得した人物と想定される。あえて求めるならば、ヲホド(継体)の曽祖父にあたるオホホド王(応神天皇の孫)がもっともふさわしい。オホホド王は琵琶湖北東部の雄族である息長氏の始祖的人物とされ、彼の姉妹であるオシサカオオナカツヒメやソトホシノイラツメが允恭大王の后妃となったことで、ヤマト王権の外戚となり、大いに権勢を揮う立場にあった。太田茶臼山が允恭陵(市野山古墳)と同じ設計で築造されていたことはよく知られており、系譜に示された関係が実際の古墳の親縁性に映された貴重な事例とみたい。
允恭天皇は応神天皇の皇子・仁徳天皇の第4皇子で雄略天皇の父。倭王済に比定されている。
三島古墳群の地域・年代別古墳年表。三島古墳群の中央部に奈佐原・土室グループがある。東端は安満宮山古墳、西に安威地区の将軍山古墳、福井地区の紫金山古墳などのグループがある。
三島地域の王墓は奈佐原地区の岡本山→弁天山から続く系譜である。今城塚古墳と太田茶臼山古墳はそれらとは隔絶した大王級の古墳と位置づけられる。
今城塚古墳模型。後円部は三段築成。1段目の直径は91m、全体の高さは18mと復元される。全体の墳丘長は181mで外堤を入れた全長は354m。石室基盤工、墳丘内石積み、暗渠排水溝が検出された。
各テラス周囲には埴輪が廻らされていた。
今城塚古墳出土の円筒埴輪。ヘラ描きされた二本マストの停泊船。今城塚古墳のブランドマークとして後円部の墳丘にはほとんどの円筒埴輪に描かれていたとみられる。マストには帆を張らず、碇を降ろしている。付近の淀川には筑紫津という港湾が設けられ、筑紫を経由して、百済救援に向かう兵站基地港として機能しており、近江毛野臣率いる6万の兵員の半島南岸への渡海と磐井の反乱への派兵に関与したと推定される。
復元された3基の石棺。兵庫高砂産竜山石製、熊本県宇土産馬門石製。
復元された3基の石棺。大阪二上山産白石製、熊本県宇土産馬門石製。
復元された熊本県宇土産馬門石製の石棺。長さ260僉幅130僉∩躪146僉0導検刳り抜き式で長側辺に2対4個の縄掛け突起をしつらえた。
埋葬状況も復元されている。
岡本山古墳(手前)と弁天山古墳(奥)。今城塚古代歴史館玄関から北西方向を眺める。岡本山古墳は箸墓古墳と同タイプの前方後円墳で全長120mとされる。弁天山古墳は前方後円墳で全長100mとされる。三島地域の王墓である。
ボランティアの女性に教えられ、意外な近さに驚いた。
今城塚古墳。復元された内堤張出しの埴輪祭祀場。日本の兵馬俑といわれる。200体を超える埴輪が置かれている。殯宮儀礼を再現したもの。
陪冢を造らなかったことも革新的であった。
今城塚古墳。墳丘は伏見地震により大きく崩壊したが、前方部の南西隅部は築造当初の姿を残していた。
北西にある新池埴輪製作遺跡へ向かった。
復元された新池埴輪製作遺跡。450年頃、太田茶臼山古墳の埴輪製作のために3基の窯、工房、住居が造られ、480年頃番山古墳などの埴輪を焼いた。530年頃になると10基の窯が造られ、生産のピークを迎えた。
専用の駐車場はないので横の車道に路駐。
闘鶏山古墳。新池埴輪製作遺跡の約300m東の名神高速道路北側丘陵にある。4世紀前半の前方後円墳で、未盗掘の竪穴式石槨2基を備えていることで話題になった。ファイバースコープによる調査では遺骸と三角縁神獣鏡などの副葬品が確認されている。
岡本山古墳のすぐ西側の丘陵だが、川を隔てており、首長の系譜が違うと評価される。
古墳の前面には闘鶏野神社があり、立ち入ることはできなかった。鳥居の前面には名神高速の跨線橋があり、参道代わりになっていた。
新池遺跡方向からしか車は進入できず、東側からアクセスしようとして時間を無駄にした。
阿武山古墳。阿武山の南面中腹の鞍部に営まれた7世紀後半の終末期古墳。被葬者は藤原鎌足とする説が有力。鎌足は669年に没し、京都山科に埋葬されたあと、摂津の阿威山を経て、多武峰に葬られたという。昭和9年、その阿威山に該当する埋葬地と考えられる古墳が京大地震予知研究センターの観測所北側から発見された。
墓域は直径82mの範囲を占拠し、幅約2.5mの浅い周溝で画されていた。墓室は墓域の中心に穿った直径9m、深さ3mほどの墓坑に構築されていた。
車では、北東から健康の里や病院を目標にして坂道を登り、左奥の谷間を進むと、地震観測所への専用道入口に着くので、路肩に駐車した。入口から車道を10分近く歩いて、建物手前の空き地から阿武山への登山道に入ると、数分で標高241m地点にある阿武山古墳に着いた。
墓域は背の高い樹木で覆われている。墳丘はない。北側から南を眺めると、往時は下界がよく見えたものと想像できた。
阿武山古墳。復元された玉枕と冠帽。石室の夾紵棺からは漆器に納められ金糸を纏った60歳前後の高い地位にあった人物と考えられる人骨が見つかった。遺骸は全身の骨格がほぼ遺存し、当初は内臓の一部や肉塊も散見されたという。
玉枕はガラス玉を一本の銀線でつづり合わせたもの。冠帽は金モールで刺繍されていた。
観測所への専用道から眺める。南東方向。古代藍野地区全体を俯瞰できる。淀川を隔てて生駒方面も見える。
阿武山山頂手前からの展望。南西には千里丘陵のかなたに大阪湾の水面が煌めいている。
阿武山。山頂。標高280m。広い山頂には三角点と男女の木像が立っている。
阿武山山頂から南東方向への眺望。生駒山地までが見通せる。
下山し、安満宮山古墳へ。
安満宮山古墳。三島古墳群の東端にあり最古の古墳。高槻市公園墓地の高台にあり、「青龍三年の丘」として整備されている。安満山の南西斜面にある長方形の墳丘で、東西18m、南北21m。260年頃の築造とされる。
安満宮山古墳からの眺望。眼下には拠点集落だった安満遺跡や淀川・枚方方面を一望できる。淀川は邪馬台国の重要な外交ルートであり、その外交にたずさわった人物が被葬者と推定されている。
安満宮山古墳副葬品に「青龍三年」銘の方格規矩四神鏡、三角縁神獣鏡など5面の銅鏡などが出土した。青龍三年は魏の年号で235年。日本最古の年号鏡の一つ。
卑弥呼が入手した銅鏡百枚は三角縁神獣鏡と考えられてきたが、魏の時代の様々なタイプの鏡が含まれていた可能性が指摘された。
高槻市公園墓地から西の眺望。名神高速に接続する新名神の高槻ジャンクションの建設工事が進んでいる。中央手前のなだらかな山が阿武山でその麓に弁天山古墳・岡本山古墳・今城塚古墳などが連なっている。
写真が趣味だという男性にこの場所からの景色がいいと安満宮山古墳から200mほど北へ連れていかれた。
15時30分過ぎになり、三島古墳群の見学を終了。近くにある摂津市鳥飼上の天然温泉「鳥飼の里」で汗を流した。580円。
翌日の古市古墳群見学に備え、道の駅羽曳野へ向かった。