中右記。藤原宗忠筆。熊野古道館。複製。
平成27年11月12日(木)。和歌山県田辺市。
中頃に千里濱の記述がある。
滝尻王子に駐車し、近露王子まで歩いて、バスで滝尻まで帰り、熊野古道館へ立ち寄った。このあと、道の駅「牛馬童子」へ移動。
後鳥羽院熊野御幸記。藤原定家筆。熊野古道館。複製。
建仁元(1201)年10月13日。田辺の御所を出て、一ノ瀬王子から滝尻王子に着き、山中御宿舎へ至る。14日。山中御宿舎から近露王子までの分。夜半さらに湯川王子へ先行。
後鳥羽院熊野御幸記。藤原定家筆。熊野古道館。
建仁元(1201)年10月13日。
後鳥羽院熊野御幸記。藤原定家筆。熊野古道館。
建仁元(1201)年10月14日。山中御宿舎から近露王子。
1992年の皇太子殿下の熊野行啓に際して、神坂次郎は著書『熊野行幸』を約2時間にわたって御進講した「熊野御幸」の主人公は藤原定家である。
神坂次郎「熊野御幸」1992年刊より。
公卿でもない、二流貴族の殿上人としての彼のこの旅での役向きは、御幸の先駆けをして、行く先々での儀式や食事や宿舎の段取り設営をすることであった。
建仁元(1201)年10月5日。京を進発。
10月13日。田辺の御所を先行。定家は馬に乗った。水垢離の信仰のため、稲葉根王子の先で石田河(冨田川)を徒歩で渡る。滝尻の宿所にころげこんだ定家は眠りこむ。夜になって後鳥羽院の御歌会が滝尻御所で催された。「かなわぬなぁ」。そう思いながらも定家は、足腰の痛みをこらえて参上した。
定家の不運はなおも続く。夜更け、後鳥羽院の気まぐれによってにわかに御幸の一行は出立する。今夜の宿は岨づたい峰づたいの難路の果てにある山中御宿所である。出発前、すでに困憊をきわめていた定家の躰は、法師姿の十二人の力者のかつぐ輿に乗せられ、暗みの裡を運ばれていった。
歩く力も気力も萎えはて、輿で山中宿まで運びこまれたものの、眠るどころか、寒風吹き抜ける仮屋の土間の上で、定家は病犬のように身を震わせているしかなかった。
14日。朝明けに仮屋をでた定家は、山中の宿を先行。十二人の力者たちは、輿の上にしがみついている定家を揺りあげながら、湯玉のような汗をしたたらせ、一足ひとあし山の径を踏みのぼっていった。
近露御所は、川の手前にあった。その後鳥羽院駐泊の御所から田をへだてた近処に、定家たちの宿の仮屋がある。後鳥羽院の一行が到着したのは、昼過ぎであった。昼食をすませた後、例によって近露御所で御歌会が催された。
後鳥羽院の熊野御幸は、すさまじいばかりの歌の旅であった。熊野三山への往路15日の間に、十度の歌会を催している。後鳥羽院の和歌をしたためたのが「熊野懐紙」で、この旅から帰った翌月、後鳥羽院は定家たちに「新古今和歌集」を撰進させている。
このとき藤原定家40歳、後鳥羽院は21歳。後鳥羽院は承久3(1221)年まで29度の熊野御幸を続けた。
10月26日。京に戻る。定家が随従する気になったのは、日頃から抱いている宮廷人事への忿懣からであった。中将を望んだがかなえられず、いつの除目からもこぼれ落ち、40歳にしてなお、わが子のような少将たちにまじっている屈辱は。人いちばい誇りたかい定家には堪えられなかった。それにひきかえ、さしたる才能もない若者が、要路に賄賂をおくり官を買い、定家などを尻目に、昇進をきわめていく。かれらを見るたびに定家は、身がふるえてならなかった。そんな恚りを定家は「明月記」の中に叩きつけている。
熊野御幸に随従し、後鳥羽院とその側近で実力者の、内大臣右近衛大将、源通親への接近を図り、熊野の旅から帰ってきた。やがて、12月23日、除目の日がやってくる。ところが、いつまで待っても、定家のもとにはなんの沙汰もなかった。定家の、生涯ただ一度の熊野御幸の旅はおわった。