平成27年11月13日(金)。和歌山県田辺市。
奇絶峡から田辺市街地へ向かい、闘鶏神社を見学したのち、田辺市立歴史民俗資料館を見学するため市役所に駐車。数人に尋ねた結果、現地に着くと移転したと分かったので、近くにある南方熊楠顕彰館・南方熊楠邸をまず見学した。顕彰館は無料。南方熊楠邸は300円。翌日、白浜の南方熊楠記念館に行ったら、新館建設のため数日前から28年12月まで長期休館となっていた。
南方熊楠邸は熊楠が亡くなるまでの半生を過ごし、研究の拠点でもあった。その旧邸に隣接する南方熊楠顕彰館は、熊楠の生涯や文献を紹介・保存している資料館である。
南方熊楠(1867~1941年)は、日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者。18言語を解し、「歩く百科事典」と呼ばれ、熊楠の言動や性格が奇抜で人並み外れたものであるため、後世に数々の逸話を残している。
神坂次郎著「縛られた巨人南方熊楠の生涯」(新潮社、1987年刊)は当時話題となり、それからテレビなどで取り上げられたので、概要は知っているつもりだったが、今回初めて通読した。
昭和4(1929)年 6月1日南方熊楠は紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講した。熊楠はこの日、フロックコートを着て神島に向かい、その後、お召艦で秘蔵の収集品をご覧に入れた。昭和天皇は、タバコの空き箱や古新聞にくるまれたそれらの標本を楽しまれ、進講時間を延長させて熊楠をねぎらわれたという。その時、献上の粘菌110点を大きなキャラメルのボール箱11個につめて持参したことは、いまでも語り草になっている。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったからである。
キャラメル箱が巨大なのでおどろいた。市販のキャラメル箱をまとめて収納する大箱で、一般には手に入らないものだったらしい。
進講時に下賜された菓子箱。箱と蓋の両方に説明が書かれている。
7個の十六葉菊花紋章付干菓子、5個の十二葉菊花紋章付煉御菓子は、親戚、友人たちに配られた。
植物採集用のもの。紙の間に植物を挟み水分を抜く。熊楠が日光から自分あてに送ったもの。
田辺居住後、上京したのは大正11年に南方植物研究所設立資金募集のための一回だけなので、その時のものだろうか。
植物採集用。
顕微鏡は息子熊弥のために門弟の上松蓊に購入してもらったもの。
上松は新潟県長岡出身で、古河鉱業の門司支店長を務めたが、薬草や香道に詳しく、書を能くし、摂政宮への粘菌標本献上にあたっては、その表啓文を浄書した。筆記具、顕微鏡、書籍の購入など熊楠の手足となってよく尽くしている。上松は小畔四郎・平沼大三郎と共に熊楠門の三羽烏と称せられた。
大正14年1月31日~2月2日にかけてしたため、2月3日に投函したものと。2月2日から欠き始め、数日をかけてしたため、2月19日に投函した2通の書簡の通称。
日本郵船K.K.大阪支店副長の矢吹氏が設立準備中の南方植物研究所の基金募集に協力するために熊楠の略歴を求めたものに対する返書で7.80m巻紙に細字で生い立ちから当時の研究状況まで縷述しており、自伝文学の傑作といわれている。
東大植物学教授であった松村任三(1856~1928)宛の二通の長文の手紙(手紙は明治44年8月29日と31日に書かれている)である。手紙という形であるが、これは熊楠の「熊野の森」物語である。明治44年(1911)9月、二通の手紙は柳田国男の手によって刊行され、志賀重昂ら数十名の識者に配布された。全国でも強力に神社合祀が進められていた三重県と和歌山県下の現状を具体的に詳しく報じている。
南方熊楠が巨大な博識と、幅広い文明観を持つに至ったのは、実に5年の年月を費やし、全52巻におよぶこの抜書きの作業を通してのことであった。熊楠が抜書の最初のページに筆を下ろしたのは、1895年5月2日のことであった。満27才、アメリカ放浪を終えてロンドンに到着してから、2年半が経過していた。若き日の熊楠はこの作業を完成させるために自らの情熱のありったけをかけた。
ロンドン抜書は南方熊楠という思想家が誕生するすべての過程を閉じ籠めた記録である。毎日、5時間から7時間大英博物館で過ごしており、その時間の多くが抜書きに費やされたと思われる。ロンドン抜書は異邦にあった熊楠が自分が成し遂げるべき「大事」として構想されたものであった。52冊のノートは英・仏・独語で書かれた民俗学・博物学・旅行記の筆写からなっているが、世界各地を旅行した冒険家たちの旅行記や現地での観察者による地誌が世界を網羅する形で取り入れられており、世界の民俗風習の大事典となっている。
熊楠の日記でまとまって残っているのは、明治18年(1885)以降である。東京大学予備門在学中の1885年(明治18)から、没年の1941年(昭和16)まで、すべて南方家に保管されてきた。
その文字量は膨大であり、きわめて難読であるため、一部の日記が紹介されるにとどまってきたが、熊楠生誕120年記念として、八坂書房より青壮年期(1885年~1913年・1987年)の日記が刊行され、未刊の大正3年以降については、現在研究グループを組織し、翻字の作業中である。
東光院は大阪府豊中市にある曹洞宗の寺院。萩の寺として知られる。
米国ミシガン州アナーバー滞在中に採集。
南方は1887年(明治20年) 1月にサンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学。8月ミシガン州農業大学(ミシガン州ランシング市、現・ミシガン州立大学)に入学。1888年(明治21年)寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。ミシガン州アナーバー市に移り、動植物の観察と読書にいそしむ。この間、シカゴの地衣類学者ウィリアム・カルキンスに師事して標本作製を学ぶ。5月になると一斉に草花が咲き誇るヒューロン川周辺で、さまざまな種類の植物採集をおこなった。
1900年(明治33)イギリスから帰国した熊楠は、翌年10月より熊野にて足掛け3年、約21ヶ月におよぶ植物調査を行った。多くの顕花植物とシダやコケも採集したが、淡水藻を採集し、顕微鏡で観察するためのプレパラート標本を多数作ったことが日記にしばしば出てくる。熊楠がとくに研究した粘菌、キノコ、藻は隠花植物と呼ばれている。隠花植物には他にバクテリア、地衣、コケ、シダが含まれる。南方の隠花植物研究の中で特筆されるのは粘菌であったが、他にも多くの標本がのこされている。
熊楠の植物採集用具としては、胴乱や籠、短冊、描画道具入り採集籠等が知られている。隠花植物調査はたいてい長期にわたり、山小屋を借りて採集標本を図記するため、絵の具等は欠かせない道具であった。
写真は昭和6年11月13日撮影。北海道帝国大学の今井三子(1900~1976)が南方熊楠邸で撮影。今井は2・3日の滞在予定であったが、熊楠が何度も引きとめ、結局南方邸に8日滞在した。
熊楠が飼っていた亀の標本。娘の文枝が10歳の頃の1921年頃から熊楠が飼い始め、2002年に死亡した。