南方熊楠邸。南方熊楠顕彰館入口から母屋を眺める。
平成27年11月13日(金)。和歌山県田辺市。
南方熊楠は1916(大正5)年、同じ町内からこの邸に移り住み、没するまでの25年間を過ごした。敷地面積は約400坪(1334平方メートル)。元は田辺藩与力の屋敷であった。母屋をはじめとする建物は国の登録有形文化財。
南方熊楠邸。母屋。
木造二階建て一部平屋、寄せ棟造り瓦葺き、外壁の大部分は、開口部以外は焼き杉板の横板張り。この張り方や玄関戸が斜板張りの両開き戸であることなど、この地方の伝統的民家とは異なる洋風意匠を併せ持つ外観である。
南方熊楠邸。母屋。
邸内には大きな楠や柿、みかんの木があり、顕花植物も数百種あった。庭は研究園そのもので、お手伝いさんは落ち葉を掃除するにも気を遣った。
書斎。
木造平屋建て瓦葺きの小家屋で8畳1室に東西両側に広縁を備える。転居前に住んでいた借宅から「博物標本室」を移築した。粘菌や標本のため陽の当たらぬように自分なりに設計を凝らして改造した。愛用の机は、顕微鏡をのぞくのに便利なように手前の足2本を短く切り、傾斜をつけていた。
土蔵。
土蔵造り二階建て、屋根切り妻造り瓦葺きで、外観は焼き杉板の縦板張り。
土蔵。
土蔵は1階と2階に分かれ、1階に書棚を設け書庫とし、2階に動植物の標本を置いた。書庫には2万5千点以上の文献や抜書などが収められていた。
井戸屋形。
木造招き造屋根の簡素な小屋。背面(南面)などの外壁は縦板張りで、西から井戸、続いて竈(現在撤去)などが設置され、続いて2畳の小部屋がある。柱のうち1本は自生の木をそのまま使っているように見える。
楠の木。
楠の木は、熊楠が入居した時すでに庭園を覆うばかりにそびえていた。熊楠は自分の名文字とするクスをいつくしみ、訪れる人に自慢していた。
センダンの木。
神島にも自生し、遠目に見るとフジの花のように美しいと熊楠は讃え、昭和4年、ご進講のあと「有難き御世に樗の花盛り」とその心境を詠った。また、臨終の床で「天井に紫の花が咲いている」と詩のような言葉を遺したが、それは夢うつつに現れたセンダンの花だろうといわれている。
柿の木。
粘菌の新属新種「ミナカテラ・ロンギフィラ」を発見したことで知られる。粘菌はそれまで腐朽した木について成熟するものとされていたが、熊楠は生きた木にもつく粘菌があることに着目。大正5年この柿の木のくぼみに這い上がり成熟した粘菌を発見、イギリスの研究家G・リスターが命名、発表した。
母屋にいた案内の女性職員と10分ほど会話をし、滝尻王子先の展望台で出会った在日豪人女性が数日前にここに来て、用意周到に質問したことや、田辺市の見学ポイントなどを聞いた。
奇絶峡からは、闘鶏神社、南方熊楠顕彰館、田辺城跡、天神崎、田辺市立歴史民俗資料館、磯間岩陰遺跡、神島の順に見学した。
闘鶏神社。
闘鶏神社は、通称「権現さん」と呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請されている。熊野権現の三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負っていた。熊野本宮大社が川の増水で流失する以前の社殿の形を再現している。
社殿では七五三で参拝した客が神官の祝詞を聴いていた。
駐車場へは商店街の通りから進入するらしいが、分からなかった。
湛増と弁慶の像。闘鶏神社。
闘鶏神社は、壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が伝わる神社である。闘鶏神社の名の由来は、壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによる。
田辺城。水門跡。
田辺城は錦水城ともいわれ、浅野氏が会津川河口左岸に湊城を築いたあとに、徳川頼宜が紀伊藩主となった元和5年(1619年)に付家老安藤直次が居城とした。平城で内堀と外堀が掘られていた。
明治初年に廃城となり城郭は解体され、その後堀も埋められ、会津川に面した水門跡がわずかに昔の面影を残している。
田辺城。水門跡。
埋め門形式。
天神崎。
天神崎は、田辺湾の北側に突き出た岬で、日和山を中心とする緑豊かな20haの丘陵部と干潮時に顔を出す21haの平らな岩礁で形成されている。陸の動植物と海の動植物が、平たい岩礁をはさんで同居し、森・磯・海の三者が一体となって一つの生態系を作っており、豊かな自然が残されている。
1974年、天神崎での別荘地開発計画が持ち上がったことに端を発して、この自然を守るために「天神崎の自然を大切にする会」が結成され全国からの募金による買い取り運動がスタートし、1987年にナショナルトラスト法人の第1号に認定された。
ナショナルトラスト運動の先駆けとして有名な場所で、「日本自然保護協会」の月刊誌を毎号もらっていた関係で1970年代後半から知っていた。
田辺市立歴史民俗資料館から眺めた闘鶏神社の山。
歴民は市立図書館の2階にある。入館無料。頒布資料は豊富であった。
顕彰館で南方熊楠が闘鶏神社の山に入って、植物採集をしたと聞いた。
この頃から本格的な雨が降ってきた。
磯間岩陰遺跡。国史跡。田辺市。
5世紀末から7世紀前半にかけて営まれた漁労集団の首長とその一族の墓地。
田辺湾の最奥部にあるこの地域は、複雑なリアス式海岸を形成し、河川の堆積とそれに伴う砂浜の形成によって陸化したかつての島々や半島の崖面には、多数の海食洞窟が残されている。
磯間岩陰は軟質砂岩からなる独立丘陵の西面にあり、前面幅約23m、奥行約5m、高さ約5mの規模をもち、この付近では最も大きな岩陰である。
住宅街にあり、分かりづらい。車道に入口への小さい誘導標識がある。
磯間岩陰遺跡。
昭和44年、所有者の宅地工事に伴って、多量の土器と鹿角製品、人骨等が出土した。調査の結果、岩陰内部のテラス状の石棚の上につくられた石室8基と火葬跡5ヵ所を発見。最大の1号石室は、長さ2.9m、幅0.7m、高さ0.7m、で石室内部には60歳前後の老人と幼児の2体が向き合って埋葬され、副葬品として、直弧文の装飾をもつ大小2口の鹿角装の鉄剣、鉾、鏃等の武器と、鹿角製の鳴鏑、釣針、鉄製の釣針、土師器等を納めていた。これらの遺構は各石室のいずれにも封土のあった形跡は認められず、本来岩陰内にむき出しの状態であったものと考えられる。
神島。国天然記念物。
神島は、「おやま」と「こやま」の2島からなる3haの小島で、島をおおっている照葉樹林に神が住むと信じられ、古くから神の島として崇められてきた。生物学上、貴重とされる珍しい植物が繁茂していたことから、南方熊楠も生物の宝庫としてこよなく愛し、1929年には昭和天皇が神島に来訪して、南方熊楠が島を案内した。
鳥ノ巣半島西側の泥岩岩脈から島を遠望した。道路が狭くて見通しも悪く駐車にも苦労した。
雨が一段と激しくなり、15時30分で暗くなってきたので、田辺市の見学を終え、白浜方面へ向かい、道の駅「椿はなの湯」で入浴、車中泊。入浴料500円。道の駅の温泉で期待していなかったが、PH9.9のアルカリ性は半端でない本物で、竜神温泉以上の泉質であった。