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和歌山県白浜町 三段壁 崎の湯 阪田山祭祀遺跡・白浜美術館 草堂寺 安宅本城跡 八曽の滝

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三段壁。
平成271113日(金)。和歌山県白浜町。
道の駅「椿はなの湯」で起床。ここの立寄り湯は県内最高の泉質であった。白浜の日帰り温泉「崎の湯」の営業は8時開始なので、それに合わせて、まず途中の三段壁へ。天気予報は雨だttが、午前中はほとんど雨が降らなかった。
三段壁へは車道脇の無料駐車場に駐車して、海側へ200mほど歩くと、断崖が見える。断崖の高さは50mほどで、断崖の下には熊野水軍の船を隠した洞窟がある。
 
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崎の湯。
海岸近くの道路から一段下った場所に駐車場と受付があり、その先に簡易な小屋掛けの露天風呂がある。820分頃だったので、入った時には客はいなかった。
 
白浜が温泉地として世に知られるようになったのは、今から約1400年前の飛鳥・奈良朝の頃で、「崎の湯」が最古の温泉といわれる。その頃の「崎の湯」は、「牟婁温湯」と呼ばれており、「日本書紀」や「万葉集」にも登場する。
斉明3657)年、孝徳天皇の皇子である有間皇子が、この崎の湯に逗留した。翌年、有間皇子の薦めで木の根険しい山坂をいとわず、斉明天皇一行が湯治に訪れたとき、有間皇子は謀反の疑いにより捕えられて当地へ護送され、中大兄皇子により厳しい裁きを受けた。
大宝元(701)年には持統天皇、文武天皇が行幸、また熊野詣での往来に、後白河法皇をはじめ、都の貴族たちが沐浴している。
江戸時代には、徳川頼宜をはじめ歴代の紀州藩主および八代将軍吉宗や多くの文人・画人が来遊した。
 
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崎の湯。
湧出源と湯船。古い文献には「この湯坪は自然石にて薬師の形なり」と記されている。
 
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崎の湯。
万葉の頃から崎の湯は、砂岩に浸食された窪みが自然の湯舟になっていて、海を眺めながら入浴していたとされている。
 
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崎の湯。
湯船は二つあり、一つは波打ち際にある。この日は波が荒く立入り禁止になっていた。海まで約10mほどのもう一つの湯船に入り、岩に打ち寄せる海潮の音を聞きながら入浴した。
 
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円月島。
崎の湯を出て北進し、白良浜を横に見ながら進んで、南方熊楠記念館のある番所山方面へ向かった。記念館近くになると、円月島が見えてきた。島の真ん中に満月のように円く開いた海食洞がある。春分・秋分の頃は海に沈む夕陽が、この穴にすっぽりはまる絶景が見られる。
南方熊楠記念館手前の駐車場に来たが、何やら様子がおかしい。記念館へ歩いてみると、新館建設のため来年12月まで休館であった。がっかりしたが仕方がない。あきらめて、東にある阪田山祭祀遺跡を見学することにした。
 
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白浜美術館・阪田山祭祀遺跡。
古代遺跡の阪田山祭祀遺跡だけを見学するつもりだったが、周囲の状況からすると、どうみても白浜美術館の中にあるようだったので、500円を払って入館した。
白浜美術館は阪田山祭祀遺跡が陰陽の彫刻を祭祀していたことにちなみ、ヒンドゥ教の男神女神結合像やラマ教尊像、密教仏像など他では見られない彫像画像のコレクションを展示している。
美術館の見学を終えると、崖に建てられた歓喜神社への参拝となる。
 
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阪田山祭祀遺跡出土品。
滑石製の有孔円盤・剣形石製模造品・臼玉・製塩土器・須恵器・土錐などが大量に出土した。
 
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阪田山祭祀遺跡出土品。
 
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歓喜神社。
山裾の岩盤には女性と男性の性器を表す陰陽が彫刻されており、ご神体とされている。
夫婦和合や子宝にご利益があるといわれる。
 
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歓喜神社と神籬(ひもろぎ)。
前庭は上方の岩盤を依代とした古墳時代の祭祀遺跡で、神社形式以前の神籬形式を示す貴重な遺跡である。
 
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歓喜神社と神籬(ひもろぎ)。
祭祀遺跡は、砂岩礫を径約1mの不正円形に配置した石組の遺構であった。
 
白浜の見学を終えて、南へ下り、草堂寺へ立ち寄った。
 
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草堂寺。白浜町。
もと真言宗の円光寺といい、慶安元年(1648)に再興された際、臨済宗に改宗し、寺号も草堂寺と改められた。
草堂寺は芦雪寺ともよばれる。18世紀末、京都の著名な絵師円山応挙の高弟、長沢芦雪は大辺路富田坂の登山口にあたるこの寺院に招かれ、襖絵や屏風絵を数多く描いた。
石垣は高く、城壁のような趣きがある。
 
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草堂寺。寺内風景。
芦雪の絵画を見ることができるかと思って、寺内に入ったが、県立博物館に寄託されたため、ここでは見学できないと分かった。
 
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安宅本城跡。白浜町。
安宅(あたけ)本城は日置(ひき)川の河口から近い左岸に、室町時代の享禄年間(152832)に安宅河内守によって築かれた。
安宅本城は、日置川と安宅川の合流点の三角州に築かれた平城で、安宅橋を東に渡った水田と住宅地一帯が「城の内」と呼ばれた本城跡である。付近には支城が多く、郛を土塁で囲い込む構造が現存しているという。
 
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安宅荘案内図。
軍船の安宅船の語源ともいわれる安宅水軍を率いた安宅氏は、阿波の三好氏、讃岐の十河氏と同族である。
安宅氏は牟婁郡安宅荘より興ったといわれ、観応九年、将軍義詮花押の文書に「淡路沼島の海賊退治の事を安宅一族に命ず」とみえ、一族は由良を拠点として、淡路、四国、河内にまたがる一大水軍を形成し、海の豪族といわれた。
家督争いで内訌が起こったのち、三好長慶が弟冬康に家督を継がせたが、松永久秀の讒言により、長慶から謀叛の疑いをかけられ、永禄七年(1564)五月飯盛城中で殺害された。その子信康は三好三人衆に一味して活躍。やがて織田信長についたが、次第に毛利氏に傾いたため、天正九年(1581)羽柴秀吉によって滅ぼされた。
 
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八草の滝。日本の滝百選。白浜町。
県道37号日置川大塔線の久木橋(日置川峡)から東へ約700mの所に、小さな展望所がある。
対岸へ渡るのが面倒だったので、これで充分。
 
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枯木灘の風景。
13時ごろ、道の駅「すさみ」から。熊野古道大辺路の長井坂でも歩こうかと思っていたが、激しい雨になったので諦めた。
潮岬から西、すさみ町までの約30㎞が枯木灘とよばれる。「すさみ」は、すさぶ海、枯木灘とは、激しい海風が沿岸の樹木を白骨のように枯らしてしまうような海であるからという。
穏やかな晴天であれば、紺碧の海が見えたのだろうが、激しい風雨の中だったので、かえって枯木灘を体験できたといえる。このあと、串本へ向かう。

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