トルコ記念館。和歌山県串本町。
平成27年11月14日(土)。串本海中公園の見学を15時前に終え、紀伊大島の樫野崎へ向かった。雨のため交通量が少なかったので、意外と早く道路終点の公園無料駐車場に着いた。15時15分頃ということは、トルコ記念館と樫野埼灯台の閉館17時を考えるとぎりぎりの時刻であった。慰霊碑、灯台、記念館の順に回ったのだが。エルトゥールル号遭難事件と親日国トルコの関係は2000年ごろから、テレビなどで報道されるようになった。
エルトゥールル号遭難事件と親日国トルコ。
明治22(1889)年オスマン帝国皇帝は、オスマン・パシャを特派使節として日本に派遣した。巡洋艦「エルトゥールル号」(2344t)の乗員は、下士官及び水兵、その他合わせて650余名であった。翌23(1890)年6月7日横浜港に到着し熱狂的な歓迎を受けた。日本に滞在すること3ヶ月、日本帝国の国賓として扱われ、9月14日横浜港を出発し、イスタンブールへの帰路に就いた。
9月16日エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。台風の余波で風が激しく、海も荒れ模様であった。木造艦エルトゥールル号は、同日午後進退の自由を失い、風濤に翻弄されて、樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没した。オスマン・パシャ特派大使海軍少将以下580余名が遭難、地元住民の献身的な救助活動により69名が救助された。
日本人216名を救ったトルコ航空機。
イラン・イラク戦争が始まった1985年3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。
そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着し、日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの1時間15分前であった。元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語った。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」。
トルコ記念館は、トルコ国との友好の証として、今後一層、日ト親善の契りを深めると共に、国際的な友愛の精神を広く伝えることを目的として、建設され、2015年6月4日リニューアルオープンした。
館内には遭難したエルトゥールル号の模型や遺品、写真などが展示されており、遭難事故当時の様子を知ることができる。なお、館内は撮影禁止である。
エルトゥールル号の遭難現場。トルコ記念館2階展望台から。
エルトゥールル号が座礁した地点の岩礁「船甲羅」を見ることができる。
風雨が強かったので、かえって遭難当時の様子がしのばれた。
エルトゥールル号の遭難現場。案内図。
エルトゥールル号の遭難現場。岩礁「船甲羅」。
船甲羅は樫野崎の突端から200~300m南西、陸部から100m沖の海中にある岩礁である。この場所は、いくつかの岩礁からなっており、船が航行するには難所となっている場所である。明治23 年(1890)9 月16 日に台風により操船の自由を失ったエルトゥールル号がこの岩礁に衝突し、爆発事故を起こす発端となった場所である。
現在もこの周辺の海底には今もエルトゥールル号関係の遺物が残されており、エルトゥールル号事件を語る上で重要な場所である。
樫野埼灯台と岩礁群。トルコ記念館2階展望台から。
エルトゥールル号が遭難した時、生存者はこの灯台の灯火をたよりに陸地を目指した。灯台手前の狭い岩浜へ泳ぎ着きあるいは漂着した生存者は、灯台下の崖をよじ登って、樫野埼灯台官舎の扉を叩き、官舎にいた灯台職員に助けを求めた。これが、大島の人々による救助活動が行われるきっかけとなった。事故の翌日の9 月17 日までには、63 名の生存者が到着し、官舎で負傷者の手当が行われている。
慰霊碑。エルトゥールル号事件遭難者墓地。
昭和12 年(1937)6 月3日建立。当時の大島村長・沖周は、事故から2 日後の9月18 日に、犠牲者を葬る場所として「船甲羅」と「樫野埼灯台」の中間であるこの場所を選定した。明治24 年(1891)2 月に和歌山県によって慰霊碑、昭和4 年(1929)日土貿易協会によって追悼碑が建立された。
昭和天皇の樫野埼行幸(昭和4年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルクが新しい慰霊碑を建立するこ事を決定し、和歌山県が委託を受け、現在のような立派な弔魂碑に改修されたが、墳域設定に際して、大島村民は樫野埼灯台南東約300㎡のこの広場(面積746㎡)を提供した。そして、天皇行幸8周年記念日に当たる昭和12 年(1937)6 月3日に現在の弔魂碑が建立された。
慰霊碑。エルトゥールル号事件遭難者墓地。
亡くなったエルトゥールル号乗組員は、大島近隣の人々により何カ所かに手厚く葬られていたが、明治25 年(1892)にこの地に改葬されて現在に至っている。
墓地は、犠牲者が眠る場所であり、現在においても慰霊祭が執り行われる舞台となっている。第二次世界大戦中の慰霊祭の記録はないが、戦後の昭和29 年(1954)にトルコ共和国大使が弔魂碑を参拝している。なお、昭和49 年(1974)以降はトルコ共和国大使・武官が交代する際は、必ず弔魂碑への参拝が行われている。昭和36 年(1953)には遭難70 周年の慰霊祭からは、串本町が町を挙げて慰霊祭を挙行するようになり、それ以後、5 年ごとに慰霊祭が行われ、現在に至っている。
慰霊碑。碑壇前面の供花。
大砲型の花入れに生花が供えられている。
慰霊碑。背面。
昭和4年日土貿易協会により修繕を経た弔魂碑は、昭和12年トルコ駐日大使ゲレデ氏の斡旋と和歌山県の援助により、トルコ共和国これを改修し、生きて築ける日土親善を雄々しく死して永劫となせる名誉ある殉難者のために、ここにこの記念碑を建つ。
「土国軍艦遭難之碑」。明治24年2月建立。
墓地入口の左右には旧来の慰霊碑・追悼碑が現在の弔魂碑建立のさいに墓地の一角に移設された。
土耳其軍艦埃耳土虞羅耳遭難之碑。
紀元二千五百五十一年明治二十四年二月和歌山縣知事從四位勲三等石井忠亮撰文。 和歌山縣書記官從六位勲六等秋山恕卿書。
弔魂碑と慰霊碑建立献金者碑。
「弔魂碑」昭和4年4月、日土貿易協会建立。篆額は大谷光瑞書。
日土貿易協会は山田寅太郎が実質的に主宰していた。
慰霊碑建立献金者碑。明治24年建立。明治24年3月和歌山県知事はじめ、有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立され、併せて追悼祭が行われた。
このあと、樫野埼灯台へ向かった。