アタテュルク騎馬像。樫野埼灯台前広場。和歌山県串本町。
平成27年11月14日(土)。
平成22年6月にトルコ共和国建国の父、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの騎馬像がトルコ政府から寄贈され串本町樫野埼灯台前広場に設置された。
天覧記念碑。樫野埼灯台前広場。
昭和4年6月3日の昭和天皇来訪記念。帝国水産会および漁業会社が建立。
樫野埼灯台と官舎。
樫野埼灯台・官舎は、明治2 年(1869)に着工し、翌明治3 年(1870)に完成した。設計及び指導監督は「日本の灯台の父」と讃えられるイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841 ~1901)を首長とするイギリス人技術者・職人らによるものである。灯塔は、昭和29 年(1954)
の改修により灯台が嵩上げされているものの、それ以外は当時の姿をよく残している。
慶応2(1866)年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と「改税条約」(別名:江戸条約)を締結。この条約によって建設することを約束した8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つで、これらを条約灯台とも呼ぶ。
樫野埼灯台・官舎は古座川町宇津木で採石された石材を利用しており、切り出された石材は船で古座川を下って古座まで運ばれ、海を渡り運ばれたと記録が残っている。
樫野埼灯台。
明治3 年に建設された際の灯台は石造1 階の上に直接灯ろうが載せられた型式であった。その後昭和29 年(1954)に嵩上げされ、建設当初の高さ4.5 mから10.2 m(基礎から灯火まで)
となったため形状は大きく改変された。
さらに平成14年鉄骨造で観光用の展望台が完成し、灯台の下から6.5mの高さまで螺旋階段で結び、眺望を楽しむことができるようになった。
樫野埼灯台。銘板。
明治3(1870)年6月10日初点灯。太陽暦では7月8日。
樫野埼灯台。展望台。
南方向。海抜約38 mの高台に樫野埼灯台がある。
樫野埼灯台。展望台からの風景。
北のトルコ記念館方向。真下に付属官舎。
樫野埼灯台。灯部。展望台から。
現役の灯台である。日本最初の回転式閃光灯台。
樫野埼灯台付属官舎。内部。
平成22年から23 年にかけ官舎の保存改修工事が実施され、内部が土・日・祝日などに公開されている。
工事前の官舎は昭和45 年の灯台無人化以降、40 数年間も放置されてきたため雨漏りなどで木部の腐朽が進行し荒廃していた。しかし、長期間にわたって使われなかったため、漆喰壁や天井コーニス、床板、窓枠や建具など竣工当初からのものとみられる部分が残存していたので、補修して再利用している。外観は大正11年当時の写真に基づいて復原された。
行幸記念碑。
昭和4年の昭和天皇来訪記念碑が灯台の敷地内にある。
樫野崎地区の見学を16時30分過ぎに終え、道の駅「くしもと橋杭岩」へ移動。
平成27年11月15日(日)。本日は晴天。道の駅「くしもと橋杭岩」は、本当に橋杭岩の真ん前にある。7時40分頃、ようやく写真を撮ろうという時間になると、観光バスが1台来て、中国人の団体が降りてきた。
橋杭岩。串本町。
大島に向かって海中に一直線に並列する大小さまざまの柱状をした岩体群は、直立した石柱が延長700 mにおよび、橋杭のように見えることから橋杭岩と名付けられた。
火山活動の前に堆積していた熊野層群の泥岩の地層を突き破り、地下からマグマが噴出し、その後侵食作用を受け、硬い岩脈だけが残り、橋杭岩となった。橋杭岩は地質学上において地殻変動・岩脈・海蝕などの諸現象を示す日本でも類例のないものとして非常に価値の高い岩群で国の名勝・天然記念物に指定されている。
潮岬灯台。
明治3年の初点灯以来、100余年もの間、海上交通の要所として沖行く船を照らし続ける、30mの断崖に建つ白亜の灯台で、本州最南端のシンボル的存在である。高さは19.55m。
橋杭岩を見てから、潮岬灯台へ向かった。8時15分頃に駐車場に到着。有料駐車場だが、灯台は9時開場なので係員はいない。灯台へ行き、外観だけ見て帰ることにした。
潮岬灯台。
樫野埼灯台と同じく、慶応2年の江戸条約による条約灯台8ヶ所の一つで、日本の「灯台の父」とよばれるブラントンが設計・指導して1869年(明治2年)年4月に樫野埼灯台と共に着工した。
1870年(明治3年)6月10日に完成、仮点灯した。当初の灯台は、八角形の木造で、我か国最初の洋式木造灯台だった。本点灯は1873年(明治6年)9月15日。1878年(明治11年)4月現在の石造灯台に改められた。
潮岬と潮岬灯台。
北西に展望所がある。晴天の紺碧の海を見て、本州最南端に来たと実感した。
このあと、古座川方面へ向かった。