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和歌山県古座川町 古座川の一枚岩 真砂地区 串本町 無量寺・応挙芦雪館 那智勝浦町 日本基督教団紀南教会 下里古墳 

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古座川の一枚岩。古座川町。天然記念物。
平成271115日(日)。
古座川の一枚岩は、日本最大級の岩とされ、古座川左岸にある、高さ約150m・幅約800mの一枚の巨岩。古座川の巨岩、巨石群は、マグマが噴出してできた古座川弧状岩脈の一部で、隆起や風化を繰り返し、独特の風景を造りだしている。
橋杭岩とほぼ同じ頃にできたが、この巨岩全体が凝灰質の石英粗面岩でできており、均質かつ硬く固結しているため、風化・浸食せず残ったと考えられている。
 
「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
 
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古座川の一枚岩。ヘリトリゴケ。
下流側の岩肌に世界最大最長命とされるヘリトリゴケが生えている。その大きさは大きいもので横1.8m、縦1.5mもあり、世界最大の苔ともいわれている。
 
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真砂橋から下流側の風景。
司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『熊野・古座街道』に、七川ダムのすぐ下流にある真砂(まなご)地区を来訪したという記事があるので、一枚岩から上流の真砂地区へ向かった。詳しい予習をしていなかったので、舟運で栄えた船着き場の跡を捜したが、よく分からなかった。
真砂地区は道路沿いに数軒現住民家があるのたが、人の気配はなく、橋から古座川を眺める程度で終わってしまった。
 
真砂は古座川の上流に産する備長炭などの林産品と下流からもたらされる生活物資の集散地として大変賑わったところで、昭和初期には150軒ほどが軒を連ねる古座川上流随一の集落で、銀行が2軒、登記所も1軒あり、小学校分校、床屋に映画館もあった。その集落の中心地の跡が国道から山側に石段を上がったところに残っているという。
 
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砂橋から上流側の風景。
向こうに見えるのは関西電力佐田発電所で、その上流に七川ダムがある。
真砂の繁栄を支えた物流を担っていたのが、「真砂舟(まなごぶね)」と呼ばれていた全長約8m、幅1.2mほどの川舟で、約800kgほどの荷を積み、帆を揚げ船団を組んで古座川を往来していた。現在七川ダムの堰堤があるあたりにかつては滝があり、それ以上は舟が上れなかったので、最上流の物流ターミナルとして真砂は栄えた。しかし、トラック輸送が川舟に取って代わり、さらにエネルギー革命によって炭の生産も下火になり、真砂舟も真砂集落も急速に衰えていった。
 
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船着き場跡と思われる川岸。
観光的な案内看板は一切ないので、事前に調べていないと見当がつかない。
串本町へ戻り、もとは陸繋の砂浜である町内の狭い道路を抜けて無量寺へ着いた。
 
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無量寺。串本町。
無量寺は宝永41707)年に発生した南海トラフ巨大地震である宝永地震による大津波で全壊・流失したが]80年後の天明6年(1786年)に8世愚海和尚によって再建された。和尚が京都にいた頃の友人であった絵師円山応挙は、これを祝って障壁画12面を描いたが、年齢のためもあり高弟長沢芦雪に障壁画を託して京から南紀に向かわせた。串本に着いた芦雪は、滞在中に自らも無量寺本堂のために『龍虎図』などを描いている。
 
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応挙芦雪館本館と収蔵庫。
寺の正門脇右側に平屋建ての美術館、左側に収蔵庫の二つの展示室がある。障壁画の実物は、収蔵庫内に配置・展示されており、美術館では複製が展示されている。美術館のみで700円、収蔵庫を含めると1300円の拝観料。当然、後者を選択した。
 
複製の障壁画でも充分に堪能できるが、やはり本物は違う。久し振りに、ガラスケースに入っていない障壁画を目の前で見た。咳で異物が画面に付着する可能性があるので、できれば、ハンカチかマスクで口を覆って拝見させる必要があると、あとで思った。
 
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長沢芦雪の虎図。
館内には円山応挙、長沢芦雪をはじめ、伊藤若冲、狩野山雪、狩野探幽、白隠らの名品50点余りが展示されている。中でも円山応挙筆の『波上群仙図』、長沢芦雪の『龍虎図』を含む55面の障壁画(国の重要文化財)は海外からも高い評価を受けている。
 
長沢芦雪については、1980年代初めに「奇想の系譜」(辻雄著、1970年刊)を職場で1年後輩の東大日本美術史を出たY君に薦められて読んで、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳らとともに知った。最近、NHKの日曜美術館で紹介されたので、和歌山県の寺での鑑賞を楽しみにしていたが、高山寺・草堂寺など数か所所蔵しているはずが、現地で鑑賞できるのはここしかなかった。
 
串本の見学を終え、那智勝浦方面へ北上する。途中、下里地区を見学、まず日本基督教団紀南教会へ。
 
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日本基督教団紀南教会。那智勝浦町。
西村伊作設計の教会堂建築。大正14年(1925)にプロテスタントの教会として建築された。
木造平屋一部2階建、銅板葺、建築面積84㎡、間口6.4m奥行11.7mの単廊式教会堂。平面的な形は十字架になっている。特徴的な所はファサードで、規模の単廊式教会堂で,正面中央の玄関ポーチを高く造り,急傾斜屋根を架けているのが特徴。玄関ポーチ外壁のみドイツ壁風に仕上げている。
 
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日本基督教団紀南教会。
小川のほとりに建てられ、側面から眺めるとメルヘン的な雰囲気をもっている。
西村伊作(18841963))は文化学院の創立者で、建築家、画家、陶芸家、詩人、生活文化研究家。和歌山県新宮市で生まれた。父の弟は大逆事件に連座した医師大石誠之助。
 
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下里古墳。那智勝浦町。国史跡。
4世紀後半に築造された全長約40mの本州最南端の前方後円墳。和歌山県南部では唯一、また和歌山県で最古の前方後円墳。墳丘は前方部を若干損じている。
後円部中央には主軸と同じ向きに竪穴式石室が設けられていた。全長5.35m、内法4.75m、東壁幅0.95m、西壁幅0.65mで、被葬者は東枕だったと推察されている。また、西壁平面に丸みをもたせるなど特色ある形をもち、副葬品には多くの鏡のほか、碧玉製管玉(玉杖かとも考えられる)やガラス玉、鉄剣、刀子が出土した。
 
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下里古墳。
太田川が熊野灘に注ぐ河口左岸の砂丘台地上に営まれた。前方部を西北の太田川に向け、墳丘側面を玉の浦に沿わせている。
従来古墳の存在がない紀南地方における唯一の古墳であるばかりでなく、古墳時代前期に築かれた古墳である点においても重要な古墳とされる。
4世紀後半に紀伊半島南部を勢力とする者のいたことは未だ知られておらず、またこの古墳の周辺東牟婁郡内にはこの下里古墳のほかはまったく古墳が存在していないため誰が何のために作ったのかは解明されていない。
 
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このあと、太地町へ向かう。

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