太地くじら浜。
平成27年11月15日(日)。太地町。
太地町立くじらの博物館でクジラショーが終わったので、館を出てすぐ南にある畠尻湾(太地くじら浜)へ向かった。映画「ザ・コーブ」でイルカの群れを殺して海水が血に染まったシーンがあり、ここで撮影されたということだったからだ。しかし、湾口の様子からすると、ここではなかった。もう少し狭い入江で湾口に小島がある入り江なのだが、結局どこかは分からなかった。
太地くじら浜。
道路の陸側には臨時交番が設置されている。入り江の中ではボートに乗った水上警察か海保の一群が作業をしていた。見ていると、道路のすぐ下から警察官が一人私にところに寄ってきたので、立話をした。60歳ぐらいの白人女性がカメラを持ってうろうろしていたので、警官に彼女は反対派なのかと尋ねると、そうだという。私が、困ったものだと言うと、トラブルを起こさないでくれと念を押された。私は、単に見にきただけだから、と答えた。のどかな入江ではあったが、緊張感は漂っていた。
このあと、古式捕鯨の史跡がある灯明崎へ向かった。岬の先端近くに学校があり、駐車して先端方向へ歩くと石碑があった。
灯明崎の吉備真備漂着之碑。太地町。
天平勝宝5(753)年、遣唐使の吉備真備が唐からの帰途、遭難して牟漏崎に漂着したと続日本記に記されている。
太地は昔「室崎」または「牟漏崎」とよばれていたことが紀伊国続風土記などの文献にあることから、真備が漂着した牟漏崎はこの岬と考えられる。
灯明崎の灯明台と山見番所、狼煙場跡。
灯明崎はその昔、「室崎(ムロザキ)」と呼ばれていたが、いつしか「太地崎」に変わり、寛永13年(1636)紀州藩新宮領から派遣された士分が常駐する鯨油を利用した燈明灯台が設置されてからは「燈明崎」といわれるようになった。
灯明台は行灯型から灯籠型に変わったとされ、後代の絵図をもとに復元されている。
古式捕鯨では鯨を発見すると、見えた方向を知らせるために狼煙を上げて、沖合の勢子船と浜に待機している網船や持双船に知らせた。いうより、山見相互の連絡を主とした役割をもっていました。
燈明崎の山見台は沖に鯨を発見したり見張り船から鯨発見の信号をうけた場合、それらをここから20mほど手前にあった支度部屋の山檀那に知らせてその指揮命令を受け、沖の船団と交信しながら鯨を捕らしめる重要な任務を司るところで、山檀那をはじめ老爺と呼ばれる相談役やその他およそ10名がその任にあたっていた。
灯明崎からの風景。
このあと、那智勝浦町方面へ北上、途中の湯川温泉「きよもん湯」で入浴。ここは、熊野詣の湯垢離として知られた名湯である。料金500円。それほどの湯質でもなかった。その後、JR那智駅に併設された道の駅「なち」に到着。道路反対側にある補陀落山寺を見学。
補陀落山寺。
南方に補陀洛浄土を目指し渡海する上人達の出発点として知られる。補陀洛渡海とは、平安時代から江戸時代にかけて、小さな船に閉じこもり30日分の脂と食糧をたずさえて、生きながらにして南海の彼方にあると信じられていた観音浄土を目指すというものである。
世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。
16世紀後半、金光坊という僧が渡海に出たものの、途中で屋形から脱出して付近の島に上陸してしまい、たちまち捕らえられて海に投げ込まれるという事件が起こり、井上靖の小説『補陀洛渡海記』の題材になった。
江戸時代まで那智七本願の一角として大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風により主要な堂塔は全て滅失した。その後長らく仮本堂であったが、1990年に現在ある室町様式の高床式四方流宝形型の本堂が再建された。
平成27年11月16日(月)。火曜日は天候が悪くなるとの予報のため、熊野古道・中辺路を歩くことにして、道の駅「なち」から熊野本宮大社方面へ向かった。まず、大雲取越のうち有名な円座石を見学することにして、小口へ8時30分頃到着した。
大雲取越。小口側登り口。熊野古道・中辺路。新宮市熊野川町上長井。小口地区。
熊野古道の中辺路は滝尻王子から熊野本宮大社へ着いて参拝したのち、熊野川を船で下って新宮の熊野速玉大社を参拝、那智の熊野那智大社を参拝して、再び熊野本宮大社へ山中を北上して戻ることになっている。その途中は大雲取越で小口を経由して小雲取越を越える順路である。
円座石はこの登り口から20分ほど登った地点にある。
小口小学校跡。
登り口近辺に駐車スペースはないわけではなく、大きな写真カメラと三脚を抱えた男性が道の真ん中に駐車していた。しかし、まともな駐車場はないかと周辺を一周したのち、橋のたもとにある南方商店の女性に尋ねると、道路北側に小学校跡の校庭を利用した駐車場があると教えてくれた。
小口小学校は1996年に休校、2005年に廃校となったらしい。校舎は趣きのある外観であった。数十年前までは、さぞかし賑わっていたであろうことが想像できる。
円座石(わろうだいし)。
上部に3つの梵字が彫られた巨石。円座とは藁やいぐさで編んだ丸い敷物をいう方言で、神々が円形に座して談笑したことに由来するとされる。3つの梵字は熊野三山に対応し、向かって右から阿弥陀如来(本宮)・薬師如来(速玉)・観音菩薩(那智)をあらわすというが、ほぼ消えかけている。
登り口からすぐに民家に出て、道に迷うが、山側へ向かう。紀州犬に吠えられて歓迎されながら、苔むして滑り易い石畳を登ると、右側に林立する柱を不思議そうに眺めていると、その少し左上に円座石が鎮座していた。熊野三山の神々が集って談笑したという言い伝えがある。
円座石だけが目的だったので、ここから滑り易い石畳を下って、先ほどの登り口に帰った。
中辺路の発心門王子から本宮大社を歩くため、まず、道の駅「奥熊野ほんぐう」へ向かった。道の駅でバス時刻表を検討して、発心門王子で駐車して歩き、本宮大社からバスで帰ることにした。
発心門王子。
バス転換点脇の崖側路肩に駐車。熊野本宮大社まで約2時間のウォーキング。発心門王子は五体王子の一つ。11時30分頃に出発。車道を戻り、山側の舗装道に入る。人家が多い。
水呑王子。11時56分。実際に水飲み場があり、冷えた水は美味い。
果無山脈への展望。
高野山から本宮大社へ向かう小辺路のルートが果無峠を経て、奈良県十津川村を通っている。
伏拝王子と休憩所。
12時30分。参詣者が本宮大社を初めて遥拝し、有難さにひれ伏して拝んだという場所。本宮大社の旧社地「大斎原」の森が望めるというが、どこなのかは判じづらい。
伏拝王子。和泉式部の歌碑と供養塔。
王子跡の敷地内に和泉式部の歌碑と供養塔がある。
伏拝に差し掛かったとき、和泉式部は急に月の障りになってしまい。参拝が出来ないと悲しんで歌を読んだ。「晴れやらぬ 身の浮き雲のたなびきて 月の障りとなるぞ かなしき」。しかしその夜、熊野権現が夢に現れ、「もろともに 塵にまじはる神なれば 月の障りも なにかくるしき」とお告げがあり、和泉式部は参拝することができたという伝説がある。
この言い伝えは、一遍上人の聖たちが、熊野権現は「信・不信を問わず、貴賎を問わず、女人の不浄を嫌わず、全てを受け入れる奥の深い大らかな神である」ということを和泉式部を題材に物語としたものとされる。
三軒茶屋跡と九鬼ヶ口関所跡。
12時45分。吊り橋を渡るとすぐ三軒茶屋跡がある。かつて三軒の茶屋があり、非常に賑わっていたといい、今は新しい茶屋が建って、旅人が休んでいる。この三軒茶屋は、果無峠を経て熊野と高野山を結ぶ果無街道と中辺路街道の分岐点であった。
その隣に九鬼ノ口関所跡の門がある。この関所は高野山へ向かう果無街道に設けられていた。
熊野古道。シダ類が多く、明るい遊歩道が多い。
ちょっと寄り道展望台。
13時5分。宮大社の旧社地「大斎原」の大鳥居が望まれて、伏拝みしたくなる展望台。熊野古道から左の高台へ登り、展望台を下って、熊野古道と合流する。
祓所王子。
13時20分。熊野本宮大社にもっとも近い、大社の裏手すぐのところにある王子。往時はここで旅の汚れを祓い、心身を清めたので、祓殿ともいわれた。傍らにはイチイガシの巨木やクスの大木が茂っている。
熊野本宮大社。神門。
13時24分。裏口から回り込んで本宮大社神門へ着いた。
熊野本宮大社。
第一殿から第四殿まであるが、主祭神は第三殿・證証殿の家都美御子大神で本地仏は阿弥陀如来。
昔は熊野坐神社(くまのにいますじんじゃ)とよばれていた。造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ、古くから船頭・水主たちの篤い崇敬を受けていた。
約15年ぶり、2回目の参拝となる。前回は母親と訪れ湯の峰温泉に泊り、壺湯に入った。
13時40分本宮大社発のバスで発心門王子へ向かった。中国人2人連れと一人、ドイツ人二人いずれも30歳台がともに乗車、発心門王子から本宮へのハイキングらしかった。私は、車で本宮大社へ向かい、大斎原を見学した。
大斎原(おおゆのはら)。
大斎原は、熊野本宮大社のもともとの境内があった場所で、熊野川と音無川の中州にあったが、明治22年(1889年)の洪水で社殿が流出、上四社は現在地に移築された。
三本の川の中州にあたる聖地である大斎原に社殿が建てられたのは、飛鳥時代のことという。
駐車した「世界遺産熊野本宮館」の展示を見学。一遍上人との関係を知った。時宗の念仏聖たちは、南北朝から室町時代にかけて熊野の勧進権を独占し、それまで皇族や貴族などの上流階級のものであった熊野信仰を庶民にまで広めたのである。大斎原に「一遍上人神勅名号碑」が建立されている意味が分かった。
このあと、川湯温泉へ。仙人風呂を期待したが、12月からだった。川湯温泉公衆浴場という共同浴場へ入湯。料金250円。シャンプー・石鹸類は当然持参していた。湯質は普通。
翌日は那智大社と新宮市方面の見学なので、道の駅「なち」へ再び向かった。