平成27年11月17日(火)。那智勝浦町。
今回の旅行では登山も予定していたが、体調不良のため多くを断念した。後半は体調が回復したので、分県登山ガイドで選定しておいた那智の滝の裏山の烏帽子山を登ろうと、15日の午後にネットで調べると、2011年の台風12号による土砂災害から登山道が復旧されていないようだったので、烏帽子山登山は諦めた。ただ、登山ルート下部に陰陽の滝があり、南方熊楠つながりで見てみたいと思い、観光協会に電話すると、陰陽の滝手前の河川公園の駐車場も崩壊して、現在復旧作業をしている、妙法山阿弥陀寺への道路も今春やっと復旧したような状態ということで、陰陽の滝への歩道も崩壊しているとのこと。
11月17日(火)道の駅「なち」で起床。陰陽の滝へ行ったというようなネット情報もあるので、
大門坂下の河川公園の無料駐車場跡から探索しようとした。駐車所跡から巨石が転がる河原を前進し、左の旧歩道らしい道路へ取り付いたが、かなり先まで崩壊していたので駄目だと感じた。反対側の左岸から行けないかと、渓流を渡ろうしたが、渡渉も困難だった。
8時から2時間近く苦闘したが、諦めざるをえなくなったので、とりあえず那智大社方面へ転進することにした。
那智大社下の道路で安い駐車場を捜し、上の方で400円の駐車場へ駐車。おばさんに料金を渡しながら、陰陽の滝の件を話すと、最近見に行ったという。関電発電所上の民家庭先から登る道があるというので、近辺を見学したあとで行ってみることにした。
熊野那智大社は熊野速玉大社・熊野本宮大社とともに熊野三山の一つで、那智山青岸渡寺とともに熊野信仰の中心地として栄華を極め、古来より多くの人々の信仰を集めた。
467段におよぶ石段の上に建つ6棟からなる社殿は、標高約500mに位置し、夫須美神(ふすみのかみ)を主神としている。
社殿は、仁徳天皇の時代に現在の位置に創建されたと伝わり、平重盛が造営奉行となってから装いを改め、やがて、織田信長の焼討に遭ったのを豊臣秀吉が再興した。江戸時代に入ってからは、将軍吉宗の尽力で享保の大改修が行われた。
本尊の如意輪観世音像は、仁徳天皇の時代(4世紀の頃)、インドから那智に渡来した裸形上人が、那智滝の滝壺で見つけて安置したという。
一千日(3年間)の滝篭りをした花山法皇が、永延2年(988)に御幸され、西国三十三ヶ所第一番札所として定めたとされる。
天正18年(1590)に豊臣秀吉が再建した本堂は、桃山時代の特徴を色濃く残している。
本堂後方に三重塔がそびえ立っている。三重塔は1581年に焼失したが、1972年に再建された。那智の滝は50年ほど前に見ているが、三重塔との組合せは初めて。
高さ133m。一段の滝としては落差日本一。
那智の滝を見たあと、妙法山阿弥陀寺へ向かった。曲りくねった旧那智山スカイラインの山道を登るので、意外と時間がかかる。途中の展望台では那智湾の展望が楽しめる。数台の車が停まっていた。
駐車場からは一段とワイドな展望が広がる。
参拝者は私一人だったが、落ち葉掃除をする人などの車が横の駐車場に数台停まっていた。
亡者の熊野詣の伝承を感じさせる。
妙法山は熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は、枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を手にして妙法山に参詣し、ひとつ鐘をついてからあの世へ旅立つという伝承がある。
大宝三(703)年唐の僧蓮寂が来日し、四方を見渡せるこの山の頂上が気に入って、ここで修行をした。蓮寂は妙法蓮華経を写経して山頂に埋め、立っている木をそのまま彫って釈迦の仏像を安置した。その時からこの山は、妙法山と呼ばれるようになったという。
空海(弘法大師)が高野山を開く前の年、弘仁六年(815)年に妙法山で修行をして、西方に有るという阿弥陀如来の極楽浄土への入り口として山腹に堂を建てて阿弥陀如来を本尊としたことにより阿弥陀寺と名づけたともいう。
1981年火災により本堂が消失し、慶派作の本尊阿弥陀如来を含む多くの寺宝が失われた。現存する本堂と本尊は、1984年に再建されたものである。
本堂の額には「熊野路をものうきたびとおもふなよ死出の山路で思ひしらせむ」「空海のおしへのみちはひとつかね(鐘)弥陀の浄土へ共に南無阿ミ」と書かれている。
熊野への旅路を気乗りのしない旅路だなどと思ってはいけない。死へと旅立つ山路で、阿弥陀如来があなたに熊野参詣のありがたさを教えてあげようという歌意である。
熊野が巡礼地として確立する中世において、熊野は阿弥陀如来の顕現する地、すなわち来世・浄土と考えられており、そこへの巡礼は象徴的な意味での死と再生であった。
妙法山阿弥陀寺を出て、大門坂経由で陰陽の滝探索へ向かった。
熊野古道を通る大門坂は、熊野詣で栄えた当時の面影を特に美しく残しており、聖地「那智山」へと全長約600m、高低差約100mの石畳が続く。