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和歌山県新宮市 桑ノ木の滝 神倉神社 熊野速玉大社 新宮城跡 浮島の森 西村記念館 阿須賀神社 

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桑ノ木の滝。日本の滝百選。
平成271117日(火)。新宮市。
熊野川の支流、高田川にかかる落差21m、幅8mの滝。豊かな水量で轟々と音をたてて落ちている。昔、滝の周囲に桑の木がたくさん生えていたことから名付けられたという。
那智勝浦町の陰陽の滝の見学を終え、新宮市へ入り、市街地から遠い所へ先に向かった。国道168号線から県道230号線に入り、相賀のバス停付近に来ると、道標がある。路肩に停車して、橋を渡り、墓地と神社の横を通り、遊歩道を進み、橋を渡ると、雨のなか、滑り易い石畳と木道が続くと、滝の音が明確になってきた。県道からは15分余りの徒歩であった。
新宮市街地へ向かい、まず神倉神社へ。
 
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神倉神社。ゴトビキ岩と拝殿。新宮市。
神倉神社は熊野速玉大社の摂社である。鎌倉時代に源頼朝が寄進したと伝えられる538段の急な石段を登りつめるとあらわれるのが、社殿とご神体のゴトビキ岩で、熊野三山の神々が最初に御降臨したといわれる巨大な岩である。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言で、巨岩がご神体として祀られている。
この岩の下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。
最近はスピリチュアルスポットとして注目を浴びている。
 
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神倉神社から新宮市街地と熊野灘方向を見下ろす。
日本書紀で神武天皇が熊野に到着後に登ったという天磐盾(アメノイワタテ)は、神倉神社のある神倉山であると伝えられている。
 
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熊野速玉大社。
熊野三山の一つで、熊野速玉大神と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。
熊野夫須美大神は伊邪那美神とされ、もともとは神倉山の磐座に祀られていた神で、いつ頃からか現在地に祀られるようになったといわれる。神倉山にあった元宮に対して現在の社殿を新宮ともよび、熊野本宮大社に対しての新宮ではない。
 
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梛の大樹。天然記念物。
熊野速玉大社の境内にある。高さ20m、幹周り6m、推定樹齢1,000年、ナギとしては国内最大であるとされる。ナギはマキ科の常緑高木で、熊野信仰において神木とされ、ナギは凪に通じることから、ナギの実を束ねたものやナギの枝を護符にした記述が古記によく見られる。
平治元(1159)年、社殿の落成において熊野三山造営奉行であった平重盛の手植と伝えられる。
 
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新宮城跡。本丸入口の石垣。国史跡。
新宮城跡は熊野川河口近くの市街地北端、かつて丹鶴山と呼ばれた独立丘陵上にある。丘陵北側の直下を熊野川が流れ、熊野川の水上交通を押さえる要衝に城は築かれた。
慶長5年(1600)、関が原の合戦後、紀伊国に入国した浅野幸長に従って新宮には浅野忠吉が入った。忠吉は、入部後すぐ築城に着手したようである。
元和5年(1619)、浅野氏にかわり、徳川頼宣が紀州に入国し、付家老として新宮に水野重仲が入る。重仲は築城工事を継続し、寛永10 (1633)、2代城主重良の時に城は完成した。正保年間の製作である「紀伊国新宮城之図」には、本丸を中心に、鐘ノ丸、松ノ丸、二ノ丸などが配され、現在とほぼ同様の形状が確認できる。古い絵図等には天守閣、櫓、門、土塀も描かれているが、明治維新後の取り壊しにより全て失われてしまった。
 
熊野速玉神社から東へ延びる道路を進み、JR線路を越してしばらくすると城方向へ登る坂道があり、その先に丹鶴城公園の駐車場がある。
 
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新宮城跡。本丸入口から天守台下の石垣。
 
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新宮城跡。本丸。南東隅部。
丘陵東部の最高所(標高約60m)に本丸と天守台があり、熊野灘の沖行く船を見ることができる。そのため「沖見城」ともよばれた。
 
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新宮城跡。本丸。
北西部に、庭園の石組が残っている。
 
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新宮城跡。本丸。北西部から熊野川方向を眺める。
丸の北には川方面へ突き出した「出丸」があり、水ノ手や熊野川を見渡すことができる。城郭の東側には大規模な船着場や炭納屋群のある「水ノ手」に降りる石段がつくられており、熊野川流域の新宮炭(備長炭)の専売をしていた新宮城主が、軍事施設である城を江戸時代の安定期に経済的施設に変えていったことを示している。
 
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浮島(うきじま)の森。天然記念物。
新宮市の市街地のほぼ中央に位置する浮島の森は、巨大な木が茂る森だが、島全体が沼の中に浮いている。島の部分の厚みはわずか5060cmという。
枯れ落ちた植物が泥炭マットのようになって水に浮かび、その上に植物が生息して、土の元になる部分ができたのは600年前頃、森ができたのは350年前頃と推定されている。
 
島には130余種の植物が森をつくっている。主なものは、スギ、ヤマモモ、イヌウメモドキ、オンツツジ、ヤブニッケイなどで、樹下の地表には高層湿原に生息するオオミズゴケが生え、北方系のヤマドリゼンマイ、南方系のテツホシダのような寒暖の植物の混生が珍しいのが特徴である。
 
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大蛇の穴。浮島の森。
遊歩道で島の真ん中を通ると、大蛇の穴という場所があり、「おいの」という娘にまつわる伝説が伝えられている。
 昔、この近くに住む「おいの」という美しい娘が、薪を取りに父親とやってきた。お弁当を食べようとしたとき、箸を忘れたことに気づき、娘は箸の代わりになりそうな枝を探しに森の中へ入って行った。すると、娘の優しさと美しさに恋した大蛇が、食用としてではなく、自分のそばに置きたくてガブリと飲み込んだ。探しに来た父親がその姿を見て「おいの、おいの」と叫ぶと、三度、きれいな姿を見せてくれたが、三度目には、まるで「お父さん、あきらめて…」というような感じで笑顔を残して沈んでいったと伝えられている。この話は、上田秋成の雨月物語「蛇性の婬」という小説のもとになったという。
 
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西村記念館。旧西村家住宅。重文。
旧西村家住宅は、熊野川の河口付近に位置し、文化学院の創設者で社会思想家、建築家でもあった西村伊作(1884 - 1963)が、自邸として設計したものである。
1914(大正3)年末に竣工。木造、建築面積129.70平方メートル、二階建、切妻造、桟瓦葺、石段附属。全体は特徴的な外観の洋風住宅である。
1階に、この住宅の中心となる居間と食堂を、南庭側に向かって配置し、家族全員で過ごす一体的な空間をつくっている。2階に南面バルコニーに面して洋間の寝室を並べ、そのほか子供用の寝室、風呂や便所などを配している。外観は、洋風にまとめる一方で、軒下には、紀伊熊野地方の民家でみられる伝統的な意匠も用いている。
旧西村家住宅は、新たに興った住宅改良の動きの中で、家族本位の思潮に基づいて計画された郊外型住宅の初期の遺構として高い歴史的価値を有する。
 
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西村記念館。
西村伊作は東京に「文化学院」を設立し、日本でも最初の男女共学を実現し、自由教育を実践した。建築・芸術方面でも才能を発揮し、スイス風のこの記念館は、自宅として本人が設計したもので、与謝野夫妻や画家石井柏亭など多くの文化人や芸術家が集い、交友を深める場となったという。
 
1115日に西村伊作が設計した那智勝浦町下里の日本基督教団紀南教会を見学していたので、狭い新宮市内の道路を通ってやってきたが、駐車場所がなく、路肩駐車。
入館しようとして、玄関を見ると閉まっており、休館の案内が下記のとおり掲示されていた。
 
「旧西村家住宅の保存修理に向けて調査を実施するので、平成27119日から修理が完成するまでの数年間、建物内部の公開を休止いたします。なお、日曜日と祝日のみ、庭の入場と見学(無料)は可能です。」
 
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阿須賀神社。新宮市歴史民俗資料館。
熊野三神などを祀る阿須賀神社は熊野川河口近くの椀を伏せたような小丘である蓬莱山の麓に鎮座している。蓬莱山は古代より神の降臨する神奈備型の霊山として尊崇されてきた。南麓からは弥生式土器のほか祭祀遺物も出土している。
阿須賀神社はじつは熊野発祥の地であるといわれ、古伝によると、熊野大神は初め神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷ったとされ、阿須賀神社が本宮・新宮よりさらに古い歴史をもつという。
また、阿須賀には徐福が上陸したという伝説も残る。
 
阿須賀神社境内にある新宮市歴史民俗資料館を見学するために、ここに来たのだが、資料館見学後17時近くになったので、降り止まぬ雨のなか三重県紀宝町の道の駅へ向かった。

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