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大阪府太子町 「王陵の谷」 磯長谷古墳群 推古陵 二子塚古墳 用明陵 叡福寺 聖徳太子廟 敏達陵 近つ飛鳥博物館

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2013年11月28日(木)前半。本日は大阪府太子町の「王陵の谷」磯長谷古墳群と周辺の見学。道の駅「近つ飛鳥の里・太子」で起床。まず、孝徳陵古墳を見学しようと、竹内街道に進入すると、車1台分の幅しかなく、駐車場もないので、陵の入口を通過し、帰途に立ち寄ることにして、推古陵古墳を最初に見学することにした。

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推古陵古墳。東西59m、南北55m、高さ11mの東西に長い三段築成の方墳。推古天皇は、592年日本最古の女帝として即位。死後、その遺言によって、先に亡くなった長男の竹田皇子と一緒に葬られたとされ、内部には2つの横穴式石室があると考えられている。
推古天皇(554~628)は欽明天皇(継体天皇の子)と蘇我稲目の娘堅塩媛の間の第二皇女で、幼名は額田部皇女。用明天皇の同母妹,18歳で異母兄敏達天皇と結婚,皇后となる。
敏達天皇の死後、用明天皇,崇峻天皇と蘇我氏を外戚とする天皇が続き,蘇我馬子と対立した崇峻天皇が暗殺されて政治的危機が生じると,39歳の推古は馬子に推され豊浦宮で即位。宮はのち,小墾田に移される。
推古天皇,馬子,聖徳太子らは内政面では冠位十二階制・憲法十七条の制定などを通じ,大王への権力の一元的集中をめざした。一方外交面では百済や高句麗から朝鮮文化・技術を導入,また遣隋使を派遣して中国と直接外交,中国文化の導入を計った。さらに蘇我氏や聖徳太子は仏教を積極的に保護し,法興寺,四天王寺,法隆寺などを建立、飛鳥文化が開花した,
また、推古朝には前方後円墳という墳形が停止され、以後は大型方墳や円墳が造成される。狭山池の造成や大道(現・竹内街道)設置などのインフラが整備された大開発の時代であった。
推古陵古墳は工事中で立ち入りができなかった。

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二子塚古墳。方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式をしている。推古天皇陵の南東200メートルに位置する。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがある。
推古天皇陵から200mほど南を東進し、狭い坂道を上ると、古墳の麓に出て、路上駐車。

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二子塚古墳。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布され、蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められている。
8時30分頃だったので、近つ飛鳥博物館の開館10時まで近くの陵墓見学とし、北の用明天皇陵へ。

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用明陵古墳。東西65m、南北60m、高さ10mの方墳で、2段築成。周囲には幅7メートルの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100mに達する。天皇陵としては日本で最大規模の方墳。墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳と似ている。
用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られたが、その後、推古元年(593)に「河内の磯長の陵」に改めて葬ったと記録されている。
用明天皇(?-587、在位585-587)は欽明天皇の第4皇子。母は蘇我稲目の娘堅塩媛。聖徳太子の父。仏法を信じ,神道を尊んだ。病にかかった折,三宝に帰依したいと群臣に話したことが,蘇我馬子と物部守屋との対立を助長した。
東側道路に路駐。専用駐車場に車が1台停まっていたが、清掃していた職員の車のようであった。
北の叡福寺へ向かう。

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叡福寺。聖徳太子廟があり、上の太子として尊崇を集めている。境内の奥に廟があり、廟前の二天門は元禄元(1688)年に丹南藩主高木氏により再建された。
聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられる。叡福寺は、聖徳太子信仰の霊場として発展した。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失したが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された。

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叡福寺多宝塔。重文。承応元(1652)年、江戸の信徒三谷三九郎によって再建された。東面に釈迦三尊像、西面に大日如来を安置し、塔全体が仏殿となっている。

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叡福寺。聖徳太子廟。太子墓は斜面の自然地形を利用して築かれた円墳で、東西52m、南北42m、高さ10mと東西に長い楕円状をしている。内部は両袖式、切石造りの横穴式石室で、太子と母の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれている。墳墓の周りは結果石とよばれる石柱が取り巻いている。三層屋根が大和棟風で面白い。
平日の早朝であるが、参拝に訪れる人も多い。

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聖徳太子廟の石室模型。両袖式、切石造りの横穴式石室には明治時代初期まで入ることができた。玄室の奥に石棺、手前左右に夾紵棺が置かれていた。奥の棺は母の穴穂部間人皇后、左は太子の妃膳郎女、右が聖徳太子の棺とされる。
叡福寺東の和みの広場に展示されている。ここの広い駐車場に駐車したが、叡福寺南側に寺の駐車場があった。

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叡福寺東の和みの広場から南東方向へ磯長谷を眺める。中央の小高い森が用明陵。その奥に推古陵が隠れている。奥は葛城山系。

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敏達陵古墳。太子西山古墳。全長約93mの磯長谷では唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせている。
敏達天皇は欽明天皇と宣化天皇の娘石姫の子。572年即位した。父欽明の遺詔に従い任那復興を企て,百済,新羅と交渉した。その結果,新羅に調を進らせることに成功したという。百済との交渉では火葦北国造の子日羅が百済の情勢を伝えたが,日羅はそのために殺された。物部,中臣両氏の実力を背景に,仏像をすべて蘇我馬子に還付するなど,仏教排斥を断行した。死後、母の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと『日本書紀』は記す。
出土した埴輪からは古墳時代の後期前半の築造と考えられ、6世紀末に没した敏達天皇の陵とするのは年代的に齟齬がある。ただし、欽明皇后の石姫の古墳に埋葬と記されており、6世紀後半の時期や、規模も妥当といえる。平田梅山古墳が本来の敏達陵の可能性もある。
陵の北側に駐車スペースがあり、長い参道を進むと拝所に出るという独特な雰囲気がある。
10時近くなったので、河南町の大阪府立近つ飛鳥博物館へ向かう。

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近つ飛鳥博物館。安藤忠雄の設計により、1994年に開館した。自身の代表作として挙げるこの作品は、第26回日本芸術大賞他を受賞している。屋上階段広場を横断すると、設計上アクセントとなったであろう、二つのRC壁で構成された通路が姿を現す。その先にエントランスがある。
安藤は、この博物館の姿を 「古墳と同じく空に向けたファサードの表現」を持つ「現代の古墳」と表現している。建物は墳墓の斜面を思わせる階段状の屋根で覆われている。階段屋根の中央には、「黄泉の塔」がそびえている。安藤氏は、「建物内部に入るとき、人々は古墳内部に入っていくのと同様な感覚を体験できる。それは古代の黄泉の国への旅である」 と語っている。
コンクリート壁の間の通路を歩かせるというのは、安藤忠雄作品の共通な手法。私自身は好きではない。無機質なコンクリート、閉鎖的な空間は頂けない。

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近つ飛鳥博物館。1階から地階を見下ろす。地階中央には仁徳陵の模型が鎮座する。考古学講座のグループがいたので、講師の解説を盗み聞きながら見学した。驚いたのは、音響。100m先で解説している声が耳元で聞こえる。回廊の放物曲線が音を拾い集音しているのだろうか。ギリシア・ローマの劇場音響もかくやと思われた。狙っての設計であれば大したものだ。単なる雑音を聞かせられるのも困り者だが。

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近つ飛鳥博物館。金銅製沓。6世紀、一須賀WA1号墳。複製品。

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近つ飛鳥博物館。ミニチュア炊飯具。一須賀古墳群出土。竈・甑・鍋は古墳時代中期初め頃(4世紀後半~5世紀初め)に朝鮮半島から新たにもたらされた。古墳時代後期には、これらの小型品である「ミニチュア炊飯具」が古墳の副葬品として出土する。近畿地方では奈良盆地南部や生駒山西麓、琵琶湖西岸など渡来系氏族が居住したといわれる地域の古墳からの出土が多くみられる。

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ガラス筆管。斑鳩町・竜田御坊山古墳。7世紀。複製品。

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船王後墓誌。柏原市松岳山。668年。長さ29.4僉幅6.7僉J製品。原品は三井文庫。飛鳥時代の官人,船王後の墓誌。文中,668年に相当する〈戊辰年〉の年紀があり,現在までに発見されている墓誌の中では,最古の紀年を有する。文字は鍛造の銅板の表裏に刻まれている。
「船氏の故、王後の首は、船氏の中祖であった王智仁の子である那沛故首の子である。敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え、舒明天皇の代に至った。天皇がその才能の卓越さと功績の高さを知って、大仁の官位(十二階のうちの第三位)を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668)12月、松岳山の上に葬った。夫人の安理故能刀自と墓を同じくし、その長兄である刀羅古首の墓のとなりに墓を作った。これは『即ち万代の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんと欲し』てのことである」。
「続日本記」延暦9(790)年7月条によれば、津連(菅野)真道らが、自分たちは百済人で、「貴須王の5世の子孫である午定君には、味沙、辰爾(智仁)、麻呂(牛)の三子があり、それぞれ白猪(葛井)、船、津の祖先である」、との上表文を残している。「辰爾」は、「日本書記」敏達天皇元(572)年、誰も読めなかった高句麗の国書を読み解いたことで有名である。

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アリ山古墳副葬庫埋納時再現模型。誉田御廟山古墳の陪冢とされる5世紀前葉の古墳。墳丘は一辺45m方墳で、墳頂部に中央・南・北の三つの施設が発見された。特に北施設からは大量の鉄製品が出土した。長方形の土壙からは、武器・農工具が上中下の3層に分かれて置かれていた。上層では鉄鏃1542本が、50本の矢を一束にして置かれていた。中層では槍8本、矛1本、鉄刀77本、鉄剣8本の武器が置かれていた。下層では斧、蕨手刀子、ノミ、錐、ヤリガンナ、鋸、鎌、鍬など929点の鉄製農工具が置かれていた。
特別展「考古学からみた推古朝」も見学したので、12時近くに館を出て、隣接している風土記の丘の一須賀古墳群の見学に向かった。

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