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大阪府太子町 飛鳥風土記の丘 一須賀古墳群 河内源氏三代の墓 飛鳥戸神社 竹内街道歴史資料館  孝徳天皇陵 

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2013年11月28日(木)後半。本日は大阪府太子町の「王陵の谷」磯長谷古墳群と周辺の見学。午前中は、推古陵、二子塚古墳、用明陵、叡福寺・聖徳太子廟、敏達陵、近つ飛鳥博物館を見学。午後からは、博物館に隣接している飛鳥風土記の丘から見学。

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一須賀古墳群。B-7号墳。飛鳥風土記の丘は6世紀から7世紀にかけて築造された群集墳の一須賀古墳群を保存公開する史跡公園である。丘陵上に点在する古墳は270基にのぼり、大半が小規模な円墳で、他に少数の方墳があり、それぞれ数基から数十基ほどにまとまって造営されている。
円墳は径15mから20mの小規模なものが多く、ほとんどは横穴式石室を埋葬の主体部としている。石室内には石棺あるいは木棺を2ないし4基置くことが多く、副葬品では金銅製の沓、垂飾付耳飾のほか、特徴的なものに竃と甑のミニチュアの炊飯具がある。
出土した須恵器からみると、古墳の築造は6世紀の前半に開始され、7世紀初頭から前半には終焉を迎えたと考えられる。
この地域は6世紀頃に百済系の渡来人集団が定着した地で、北側に位置する7世紀の王陵群である磯長谷古墳群との強い結び付きが想定されることから、朝鮮半島からもたらされた新しい技術力を背景に、蘇我氏などの豪族が掌握した渡来系氏族の集団墓と考えられている。
風土記の丘には102基の古墳が保存され、そのうち40基が見学できる。博物館で案内図を入手し、B支群・D支群・展望台・J支群の順に小1時間をかけて周回した。
B-7号墳からは、金の耳飾りが出土し、博物館に展示されている。

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一須賀古墳群。D-4号墳。D支群は風土記の丘のほぼ中央部に位置し、山頂部へ登る尾根に沿って古墳が点在する。この古墳は6世紀後半の築造で、径25m、高さ2.3mの円墳。一須賀古墳群の中でも最大級の規模を誇る。石室は右片袖式、羨道は長さ5,8m、幅1.5m、高さ1,6m、玄室は長さ3,9m、幅2.5m、高さ3m。石棺・木棺を交え4体以上が順次葬られ、金銅製飾金具、釵子など渡来系の特色ある遺物が副葬されていた。

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第一展望台から河内平野への展望。北西方面には古市古墳群が列をなしている。仁徳陵も見えることがあるという。
園路を北東に下り、第二展望台へ。

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第二展望台から北東・北西を望む。二上山の西麓にある磯長谷古墳群が右側に、左に古市古墳群が見える。中央に飛鳥戸神社や河内源氏の里がある。

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第二展望台から北東を望む。磯長谷古墳群と竹内街道が通る。

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第二展望台から北西を望む。古市古墳群が連なる。

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一須賀古墳群。第二展望台から石室が密集するJ支群の尾根道を博物館まで下った。
羽曳野市通法寺にある源氏三代の墓方向へ向かう。

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源頼信の墓。源頼信(968~1048)は、源満仲の3男で河内源氏の祖。。藤原道兼の家人となり,その死後は弟道長に仕えた。その臣従ぶりは兄頼光に劣らず,藤原実資をして「道長の近習」といわしめたほど。平忠常の乱(1028)では甲斐守として追討に成功,勇名を坂東一円にはせた。鎮守府将軍ののち,河内守叙任を機に同国石川(羽曵野市)の地に勢力を培った。
狭い集落の中の道を進み、通法寺跡脇に駐車。南へ戻り、東へ坂道を上ると標識があった。

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源義家の墓。源義家(1039~1106)は頼信の孫で頼義の子。永承6(1051)年に勃発した前九年の役に父に従って参戦。康平5(1062)年,功により出羽守となる。永保3年,陸奥守に就任,豪族清原氏の内紛である後三年の役に介入。清原家衡,武衡らを討ち清衡を助けたが,朝廷の停戦命令を無視し,たため,合戦は私戦とみなされて恩賞もなかった。以後,摂関家に近侍した弟義綱と対立,
承徳2(1098)年,白河法皇の意向によって陸奥守の功過が定められ,同年には院の昇殿を許され院の側近となる。反面,一族の不祥事が相次ぎ苦境に陥り、その最中に死去。
源義家の墓から北へ坂を下ると、通法寺跡からの道と合流。通法寺跡へ戻る。

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源頼義の墓。源頼義(988~1075)は河内源氏の祖頼信の子。一時期,小一条院(敦明親王)に仕え都での生活を送った。平忠常の乱(1028)では父に従って追討し,前九年の役(1051~62)では陸奥守兼鎮守府将軍として子義家と共に安倍頼時の反乱を長年月にわたる苦戦のすえ鎮定し,勇名をとどろかせた。
通法寺は1043年父頼信と共に建てた小堂がもとで、前九年の役のとき、頼義が浄土教に帰依し
河内源氏の菩提寺とした。通法寺跡に墓がある。300mほど北にある壺井八幡宮に向かう。

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壺井八幡宮(右)と壺井権現社(左)。壺井八幡宮は前九年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、康平7(1064)年に石清水八幡宮を勧請し社殿を造営したと伝わる。この地は寛仁4(1020)年に源頼信が河内守として赴任し、丘陵上に建てた館跡のすぐ東方にあたり、一帯は河内源氏の本拠地であった。
壺井権現社は壺井八幡宮の摂社で、天仁2(1109)年、源義家の五男義時が創建して河内源氏の祖神として頼信・頼義・義家を祀って創建したと伝わる。
両社とも南北朝から戦国時代にかけたびたび兵火にかかり荒廃した。現在の社殿は、元禄14(1701)年、徳川綱吉の命により柳沢吉保が再建した。

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壺井八幡宮から南の通法寺跡方面への風景。
北の竹内街道付近にある飛鳥戸神社へ向かう。

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飛鳥戸神社。延喜式式内社のうち名神大社として羽曳野市域では最高の神格をもった由緒ある古社。祭神は百済の昆伎王(こんきおう)で飛鳥戸造の祖先にあたる。神社の周辺は、飛鳥千塚と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられている。大宝律令後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名がこの地域に付けられた。
竹内街道から飛鳥の集落に抜ける丘陵上にある。

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飛鳥戸神社拝殿。平安時代以降は、後裔氏族の百済氏・御春氏が没落して衰退した。
道の駅近つ飛鳥の里太子へ行き、徒歩で竹内街道歴史資料館から順に見学した。

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古市古墳群と竹内街道。竹内街道歴史資料館の展示写真。2013年は推古21年に現在の竹内街道に相当する「大道」が設置されてから1400年になる。企画展では関連資料が展示されていた。
手前の大きな古墳は誉田御廟山古墳(応神陵)、その右に墓山古墳、日本武尊白鳥陵古墳と続く。右上は二上山と磯長谷古墳群方向。竹内街道は誉田御廟山古墳の南から二上山南の竹内峠を通り、飛鳥へと通じていた。

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聖徳太子廟の石室模型。竹内街道歴史資料館の展示。両袖式、切石造りの横穴式石室。玄室の奥に石棺、手前左右に夾紵棺が置かれていた。奥の棺は母の穴穂部間人皇后、左は太子の妃膳郎女、右が聖徳太子の棺とされる。

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竹内街道。

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竹内街道。大道旧山本家住宅が見えてくる。

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竹内街道。大道旧山本家住宅。国登録文化財。大和棟の民家で、瓦屋根に茅葺屋根がのるのが特徴的。江戸時代末期の建築とみられる。
付近に孝徳天皇陵への入口があり、石段の坂道を数分登ると、拝所の横に出る。

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孝徳天皇陵。直径約30m高さ9mの小さな円墳。孝徳天皇は大化の改新で厚葬を禁止している。竹内峠を鶯の関とよんだことから、別名「うぐいすの陵」と呼ばれ、枕草子にも登場する。
孝徳天皇(軽皇子)は、敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇・天武天皇の叔父。
孝徳天皇は645年の「乙巳の変」で皇極天皇から譲位された。孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子とし、中臣鎌足を内臣に、阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に任じた。
皇后は間人皇女、皇妃の小足媛は阿倍倉梯麻呂の娘で、有間皇子の母。
旧勢力の強い飛鳥を離れて、645年末に難波長柄豊碕宮に遷都し、翌646年(大化2年)1月に改新の詔が発せられた。649年右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が異母弟の蘇我日向の讒言により謀反の疑いをかけられて自害した。これは中大兄と鎌足の陰謀とされる。653年に中大兄皇子が大和に遷都すべきことを奏上したが天皇はこれを拒否した。中大兄皇子はこれを無視して遷都を強行、皇極・間人・大海人らも大和へ戻った。654年10月孝徳天皇は失意のうちに難波豊碕宮で崩御した。
15時30分頃、道の駅に戻り、帰宅の途に着いた。

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