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広島県 極楽寺山 大峯山 湯ノ山明神旧湯治場 高松城跡 木の宗山銅鐸銅剣出土地

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極楽寺本堂。廿日市市。平成25年10月28日(月)。佐方SAで起床。本日は先日の雨で諦めた極楽寺山からスタート。海側からの登山道もあるが、裏の山麓から一気に標高693mの極楽寺山山頂付近の駐車場へ登る車道を利用。7時30分頃着いたが、車は一台もなかった。5分ほど歩いて登っていくと、極楽寺の境内に着いた。
極楽寺は天平3(731)年に僧行基が開山し、聖武天皇が建立したと伝わる古寺。境内には、本堂を中心に阿弥陀堂、鐘楼などが並んでいる。厳島の藤原神主家の帰依を得ていたが、江戸時代には寺勢が衰退した。本堂は毛利元就により再興されたのち、さらに享保4(1719)年に再建されたものという。

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極楽寺の海側展望台から瀬戸内海を眺める。東に朝日に輝く水面に浮かぶ島々が見える。手前が似島で左のピークが安芸小富士。その奥は江田島と西能美島。

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極楽寺の海側展望台から瀬戸内海を眺める。西には右に宮島、中央に薄く大黒神島、左が西能美島、中央手前の平坦な島が大奈佐美島と小さい絵の島のようだ。
展望台には海側からの登山道から登ってきたと思われる男性がいた。いる間にも2人ほどが下から現れた。人気のある登山道のようである。
もう少し本格的な登山である広島市最高峰の大峯山の登山口へ向かう。

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大峯山。中国自然歩道から眺める。極楽寺から下ったのち、ナビが遠回りのルートを指示したが、短絡する山越え道路に入ると、確かに狭い道だが問題なく通行し、山を越えると、自然歩道の休憩ベンチと大峯山の案内看板があった。

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大峯山。登山口。廿日市市の下川上地区。分かりやすい。9時前に着いたので、まだ1台も車はなかった。分校跡ということで、それなりのトイレだが清掃は行き届いている。久し振りなので、準備に時間がかっているうちに熟年夫婦の車が来て、そそくさと登っていった。
9時53分登山口出発。

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大峯山。三角点。登山口からは別荘地の中の車道歩きで、これが本日一番こたえた。貯水槽に着くと、先ほどの夫婦が暑いといって服を1枚脱いでいた。山腹の急登をこなすと尾根に着き、なだらかな尾根登りになる。展望地に寄らずに、さらに登ると、通り過ぎそうな空き地に三角点があった。ここは単なる通過点なので、さらに先の山頂岩場地帯へ向かう。

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大峯山。山頂。標高1050m。岩場地帯に簡単なハシゴが二つあり、登りきると、10時51分山頂到着。背後は吉和冠山などの中国山地。

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大峯山。山頂からの展望。遠く宮島、江田島などの瀬戸内海も遠望できる。右端が三角点台地。
11時2分山頂から下山開始。11時39分登山口帰着。途中で数人と対向。
北東の湯の山温泉へ向かう。

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湯の山温泉。江戸時代から広島藩内唯一の温泉場として藩主浅野公の湯治場として栄えた。山間の斜面に温泉が湧出している。近くにクアハウスもあるが、料金は高く、こちらの湯の山温泉館は350円。広い駐車場もある。ただし、石段を上らねばならない点が難点といえる。

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湯の山温泉。石段を上ると、左に温泉館がある。石段を直進すると、鳥居があり、旧湯治場がある。

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湯の山温泉。旧湯舎。

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湯の山温泉。旧湯舎の中を覗くと、湯壺が見える。

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湯の山温泉。湯ノ山明神社の拝殿があり、階段の上に本殿が見える。湯治と信仰が一体化した温泉場で、全体が湯ノ山明神旧湯治場として県史跡に指定されている。
頼春水ら多くの文人墨客が来遊し、多くの紀行文が残されている。

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湯の山温泉。湯の山温泉館。内湯の外に出ると、豪快な打たせ湯があり、4mの高さの岩盤から流れ落ちてくる。

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湯の山温泉。湯の山温泉館。打たせ湯に試しに当たってみると、痛くて冷たい。夏なら快適だろう。
このあと東へ向かい、太田川に沿って可部の高松城跡へ。

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高松城跡。登城口。高松城は戦国時代初期に安芸国三入荘の地頭熊谷氏の本拠として、標高339mの高松山の山頂一帯に築かれた山城である。河川工事などで周辺は変貌しているが、川の東岸脇に登城口の看板がある。
熊谷氏は一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷直実の後裔で、承久の変の戦功として、熊谷直時が三入荘の地頭職を与えられ、武蔵の国からこの地へ移った。
南北朝時代に4代熊谷直経が高松城を築き本拠としたが、実際の入城は12代信直の時代(1500年頃)とする説もある。   
熊谷氏は守護武田氏に属し、安芸の有力国人として成長していった。しかし、永正14(1517)年、有田中井手合戦において、毛利元就と戦い、熊谷元直と武田元繁は敗死し、武田氏の勢力は大きく衰退していった。元直の子信直は元繁の嫡子光和と不和になり、光和の軍勢に本拠高松城を攻撃されたことを機に信直は毛利元就に属することになり、以後、熊谷氏は毛利氏の領国拡大のために軍忠をはげみ、また毛利氏と姻戚関係を結び、毛利氏の重臣として遇された。
信直の嫡孫元直は毛利氏の防長移封後の慶長10(1605)年に、萩城築造の奉行でありながら工事を遅らせた責任を問われ一類とともに処断された。この事件の背景には、元直が毛利氏からのキリシタン改宗命令に応じなかったことがあったとみられている。元直のあとは孫の元貞が継ぎ、子孫は萩藩寄組として続いた。
高松城は広島城築城時に廃され、元和の一国一城令で取り壊された。

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高松城跡。登城道。道の左右には標識や「大文字」の標識が各所にあり、迷うことはない。入口で水を飲んでいると、軽装の中年夫婦が汗だくで降りてきた。妻に尋ねると大変だったと答えた。

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高松城跡。山頂の本丸跡。入口を14時38分に出発する、入口の上は墓地で、すぐに鳥居があり、谷川に沿って石混じりの道を左岸に沿って登って行く。谷を詰めると、山腹を左に登ると、これまでの暗くて視界のない登山道から、山の斜面の尾根道に代わり、三の丸跡の高松神社、二の丸を経て、さらに道を登ると、15時7分ようやく本丸跡の山頂に到着した。

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高松城跡。山頂から北の展望。左端に太田川が流れる。

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高松城跡。山頂から南の展望。中央に太田川が流れ、その先に広島湾も遠望できる。海陸交通の要衝であったことが分かる。手前は可部高校のグラウンド。実は登山口目標であるグラウンドを探したが、台地上にあるので、車道からは見えず分からなかった。
右は阿武山。中央やや左奥に中小田古墳群のある松笠山。その左奥が木の宗山と思われる。
15時15分に下山開始し、15時36分に登城口へ帰着。次に木の宗山銅鐸銅剣出土地へ行くため、時間がなくなり、熊谷氏土居屋敷跡には行けなかった。

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木の宗山銅鐸銅剣出土地の入口。県史や歴史散歩を事前に読んだときに、関心をひいたのが、ここである。ネットで場所を調べたが、山陽道広島東インター近くの神田神社近くぐらいとしか分からなかった。木の宗山を半周して、インター近くに来ると、山側に民家が密集してきた。山の麓方向へ入り、地元の婦人に尋ねると、行ったことがあるといわれ、大体の位置が分かった。
インターに近い道から入り直し、特養のふくだの里を抜けて、山へ向かった。三田ヶ峠に木の宗山登山口があったが、これではないので、行き過ぎたと分かり、少し戻った民家にいた老人に尋ねると、この先に出土地があるとのこと。よく見ると、出土地への案内看板もあった。
民家の間の細い道を抜けると、山道になり、急斜面を10分ほど登ると、山の西南中腹にある出土地に着いた。

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木の宗山銅鐸銅剣出土地。目の前に三尊石のような細長い岩が三つ立っていた。明治24年に地元福田の光町尽三郎氏が夢のお告げによって、発見したと伝えられている。
立石の前に人為的に工作した跡のある平らな花崗岩があり、その下に木炭がつまっていた。そこから銅鐸、そして25cmほど離れたところから銅剣、銅戈が出土したという。

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木の宗山銅鐸銅剣出土地。南の広島東インター方面を望む。眼下には福田地区の平地が広がり、遠く府中町辺りの広島湾も望むことができる。弥生時代の青銅器は多くの場合、意識的に集落から離れた丘陵斜面や山陰に埋められた状態で発見されている。しかしその場所を石で囲ったり、石をかぶせたりして目印にすることはほとんどなかったらしく、このように立石の下から発見されるのは珍しい例とされる。

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出土した銅鐸,銅剣,銅戈。重文。銅鐸は高さ19.0cmで,邪視文とよばれる特異な文様をもち,古式の銅鐸とされている。銅剣は長さ39.7cm,銅戈は長さ29.5cmでいずれも実用の武器から退化した型式である。山腹の大立石の下から発見されたというその出土状態と,銅鐸の出土地としては西端にあり,近畿を中心に分布する銅鐸と北部九州を中心に分布する銅剣,銅戈とが共存したことから注目された。

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出土した銅鐸。銅鐸は「福田型銅鐸」とも言われ,九州,中国地方に分布し,数多い銅鐸の中でも形態及び特異な文様から見て古い段階の銅鐸とされている。銅鐸は外縁鈕式と呼ばれ、高さ18.9僉⊇鼎470g、文様が横に区切られるので横帯文、本例が初めての出土なので福田型、文様が眼を表現するので邪視文銅鐸などとよばれる。「福田型銅鐸」の銅鐸の鋳型の一部が佐賀県から出土し、銅剣・銅戈とも北部九州で造られたとみられ、北部九州との交流を示す遺跡である。
麓に帰ると17時20分頃で暗くなりかけていた。佐方SAへ帰った。
翌日の行程は江田島の古鷹山登山から始めた。

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