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Channel: いちご畑よ永遠に
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ペルー北部海岸の都市チクラヨ 日本人が発掘した黄金の都 シカン博物館 その1

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ペルー北部の都市チクラヨ中心部アルマス広場周辺。
201568日(月)。エクアドルのグアヤキルから前日21時発のシバ社の長距離バスに乗り、昼頃にシバ社のバスターミナルに着き、いよいよペルーへの旅が始まった。

ペルーを含む全体の行程は次のとおり。http://blogs.yahoo.co.jp/yuuutunarutouha/35481384.html

バスは途中、ピウラを通過した。旅行前にペルー人のノーベル賞作家バルガス・リョサの「緑の家」を読み、20世紀前半のペルー北部の様子を感じ取ることができた。小説の舞台の一つがピウラで、主人公の一人が、ピウラの町外れの川の畔に建てたのが緑色をした娼家「緑の家」で、その面影でもないかと、ピウラの街並みを通路側の席から眺めていた。

ペルー北部海岸の都市はピウラもチクラヨなども砂漠地帯の川沿いに造られている。砂塵で汚れた街外れの家並みからピウラの中心部を抜けると、川を渡った。これが、あの川かも知れないなと感慨に浸ることができた。小説の主人公の一人は日本人でペルー領アマゾンの上流で換金植物ゴムに絡んだ盗賊をしていることも印象に残った。
 
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ゴンサレス通りに面したオスタルの部屋から。
チクラヨのシバ社ターミナルに着き、その場で918時発のチャチャポヤス行き夜行バスの乗車券を購入したあと、予約しておいたホテルへ向かった。市内は碁盤状で分かりやすい。宿泊したオステルはバスターミナル通りの北東、イサゴ通りのすぐ南で、ゴンサレス通りに面した場所にある。12186円の安い部屋で、道路側に面しており、オスタルが交差点の手前にあるため、窓からの渋滞による騒音がひどく、排気ガスの臭気が漂う部屋だった。
タクシーは軽自動車のような小型が多く、日本に似た雰囲気を感じた。
フロントの親父に、両替屋と遺跡巡りのツアーを催行している旅行社を尋ねた。アルマス広場の南の両替屋と広場北にある旅行社を教えられた。
 
旅行社で翌日のツアーを予約した。シカン博物館、トゥクメ遺跡、シパン王墓博物館を回り、料金は40ソレス。
ツアーは団体行動なので、じっくり写真が撮影できないデメリットがある。
シパン博物館とワカ・ロハダ遺跡はチャチャポヤスから帰った613日に、路線バスに乗って自力で見学した。ツアーの3施設も独自で見学したほうが良かった。

歩き方に月曜日は施設が休館していると書いてあったので、この日の観光は諦めた。ブルーニン博物館は有名ではなく、歩き方には無休と記してあったがどうしても行く施設とは考えていなかったので、見学しなかったが、今になれば行けばよかったと思う。13日に時間が余れば見学したかもしれないが、チャチャポヤスから帰る道路の水災による閉鎖のため、時間を失ってしまった。

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アロス・コン・マリスコス。レストラン・ロマーナ。
旅行社で翌日のツアーを予約したのち、歩き方に地元で人気の老舗レストランと記載のあるバー・レストラン・マリーナで遅い昼食を摂った。
受付けで席を求めたら、席はないと門前払いされそうになった。文句を言ったら、部屋の入口前にあるテーブルを指定された。

アロス・コン・マリスコスは海鮮チャーハンのことで、イカやタコが入り、日本人には合うメニュー。これから先、セビーチェとともに、私の食事の定番となった。量が多いので要注意だが。26ソレス。
市街地には観光地とよべる場所はないので、ホテルへ帰った。
 
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イワシの酢漬け。
201569日(火)。ツアーは1030分頃にアルマス広場付近から出発。その前に近くの軽食屋で、有り合わせのものを食べた。日本人にはありがたい海鮮物。

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シカン博物館。入口。
チクラヨからの遺跡ツアーはまず、シカン博物館の見学から。
シカン文化はペルー北部沿岸で750年~1350年頃のプレ・インカ時代に栄えた文化で、南イリノイ大学人類学科教授の島田泉により名づけられた。
シカン遺跡の発掘地ワカ・ロロ(ロロ=オウムの神殿)はチクラヨの北東近郊にあり、シカン博物館はその近くに設置された。
 
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シカン博物館。中庭から。
「黄金の都シカンを掘る」(島田泉、1994年)に発掘の経緯が書いてある。TBSの後援があり、TBS系テレビや特別展で紹介されたが、その時は興味がなかったので、ぼんやりとした記憶しかなかった。
島田泉の著書は面白い。1948年京都に生まれ、14歳で父の赴任とともに渡米。アメリカ各地の大学で考古学を専攻、1973年からペルー北部海岸を発掘調査し、91年から91年にかけて、ワカ・ロマで支配者階級の墓から大量の黄金製品を発掘した。
著作の中で驚くべきことは、このあたりに荘園領主であったアウリッチ家が1930年代から60年代までに行った膨大な量の盗掘で、海外に収蔵されているアンデス文化の黄金製品の多くを占めているという。
 
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館内ロビーの銘板。
2001320日開館。シカン文化学術調査団団長・島田泉。博物館建設に際し日本国民からの資金援助を受けたという記載がある。
 
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北海岸における文化区分表。
ビクス文化。BC1000AD600年。ピウラ県の内陸部に栄えた文化。陶器、金・銅製品で知られる。陶器はブリッジされた二つの吐出口を持ち、液体を注ぐときに音を発する。
日干しレンガのピラミッド状構造物が立ち並んでいた。
 
モチェ文化。トルヒーヨ近郊モチェ川から名称をとられ、紀元前後からA.D.700頃まで繁栄した文化。モチェは、美しく彩色され、写実的に人面、動物、作物などを象った鐙型注口土器と黄金やトゥンバガ(金、銀、銅、砒素の低カラット合金)細工などのすばらしい副葬品で知られる。
モチェ王国の首都跡がトルヒーヨ近郊の「太陽のワカ・月のワカ」。
モチェ王国のもう一つの中心地がチクラヨの東郊にあるシパンで、AD100600年頃に栄えた。ワカ・ロハダのピラミッドからシパン王の墓が発見され、黄金製など豪華な副葬品が出土し、チクラヨ北のランバイエケにあるシパン王墓博物館に展示されており、本日のツアーの最後に見学した。
 
シカン文化。シカン文化はペルー北部沿岸で750年~1350年頃のプレ・インカ時代に栄えた文化。最盛期には、ペルー沿岸北部の大部分を支配した。熟練した金属加工技術をもち、金、砒素銅(銅と砒素の合金)、トゥンバガ(金、銀、銅、砒素の低カラット合金)などの多様な金属から精緻な加工品を生産し、アンデス文明のなかでもとくに大量の黄金の装飾品を作り、また実用具に使われた砒素銅(青銅)の大量生産技術をはじめて確立した文化だった。
 
チムー文化。1115世紀にペルー北部の海岸地帯トルヒーヨの近郊にあるチャンチャンを中心に成立したチムー王国の文化。アンデス文明の後古典期に属する。インカ帝国に征服される(1400年代)直前には北はトゥンベスから,南は現在のリマの付近まで,約1200kmにおよぶ海岸地帯を支配し、強力な中央集権的国家組織を反映して,巨大な神殿,宮殿を中心とした都市が各地に建設された。
チムー王国は、15世紀後半、クスコのインカ帝国によって征服されたが、その政治組織や技術は、インカ人に大きな刺激を与えたといわれている。
 
白黒の壺、銅、金、銀、青銅などの精巧な金属加工物で知られている。土器は、還元炎で焼き、磨き上げられた黒色の象形壺によって代表されるが、赤色のものもある。器型は鐙型(あぶみがた)壺、双胴壺、人面象形壺、橋型注口壺などが主体であり、生活文化や動植物相が多彩に表現されている。型入れによる量産が行われ、前代のモチェ文化の土器に比して個性に乏しい。木の儀仗、王族の木製の輿、容器、皿、儀礼用ナイフ(トゥミ)などの黄金製品、青銅の儀礼用具など注目すべき製品が多く残っている。
 
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リャマ像型土器。複製。
シカンの人々は土器に生活のさまざまな場面を彫刻したので、後世のわれわれも彼らの生活の一端を見ることができる。土器には彼らの主食のトウモロコシなどの食料や動物、人物が彫刻されていて、自然と一体であったシカン人の生活がみてとれる。
 
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鳥像型土器。複製。
 
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展示室。シカン文明の概観。

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