カラヒアへの入口。クルスパタ村。チャチャポヤス。
2015年6月10日(水)。
「カラヒアの棺」を見学する最寄の村であるクルスパタ村で、ツアーバスを下車。標高約2800mのところにあり、酸素は薄い。ここから下りの道を歩くことになり、帰路の登りは苦しいので、地元民が客を有料で馬に乗せている。帰りは3人ほどが馬を利用した。
カラヒアへの入口。
1㎞という表示があり、30分ほど歩くことになる。
カラヒアの棺方向の風景。
奥の渓谷にカラヒアの棺があるが、この風景からは存在の予知はできない。
カラヒアの棺の手前。
下る道の最後は結構な急斜面の九十九折り。藁の門からは平坦な道になる。
カラヒアの棺付近の風景。
深い渓谷の上にあり、対岸は高原地帯になっている。
カラヒアの棺付近の花。
カラヒアの棺。
断崖絶壁中程に雨露を防ぐような岩棚があり、その祭壇のようになった場所に6体の棺が見えてくる。石棺は東を向いている。
カラヒアの棺。
チャチャポヤスの民は、独自の世界観と埋葬法を持っていた。切り立った断崖に窪みを穿ち、そこに巨大な石棺を立て中にミイラを安置した。
顏の表情から「ペルーのモアイ」とよばれることがある。最大で高さ約2.5mの人型の石棺はもともと8体あったが、地震による落下などにより、現在は6体残っている。
チャチャポヤスの人々の人型の棺をつかう独特な埋葬の風習は、1791年のペルーの新聞メルクリオ誌でも触れられていたが、その後注目されることもなかった。しかし1985年ペルー人考古学者フェデリコ・カウフマン・ドイクの発見によってその存在が知られるようになった
この人型の石棺は、空洞のない頭部と棺である胴体部分からなる。胴体には人ひとりが埋葬できるほどの空間があり、そこに村長もしくはそれに準ずる高位の人物のミイラを収めていた。胎位、もしくは座位の姿勢にしたミイラを綿布で包み、獣の皮の上に載せ、あの世でも役立つよう陶器などの副葬品と一緒に埋葬されていた。
軽くて丈夫な竹やマゲイ(リュウゼツラン)の花茎などで骨組みを作り、藁と粘土を混ぜ合わせたモルタルでその表面を塗り固めている。頭部や体は、白色の上にトーンの違う2色の朱色で塗装されている。
カラヒアの棺。
放射性炭素年代測定により紀元後 1460年のころということがわかっている。これらの棺は、ワリ期の海岸部と山岳部における埋葬方法の一形態であると考えられている。
カラヒアの棺。
石棺の顔は埋葬された死者に似せてあるというが、そのいずれもが猛禽類のくちばしを思わせる鷲鼻をしている。また顔と胴体部分には赤い塗装が施され、身体の模様は鳥の羽をイメージしているという説がある。
頭上に載せられた骸骨は、戦で打ち取った敵将のものであり、生前の功績を称えるトロフィーとして飾られたといわれている。
カラヒアの棺の見学ポイント。
手前でガイドの説明を聞く。
カラヒアの棺の見学ポイント。
カラヒアの棺の崖下を通り、右側から眺めるポイントへ向かう。
カラヒアの棺の崖下を通り、右側から眺めるポイントへ向かう。
カラヒアの棺を右側から眺める。
5体しか見えない。
カラヒアの棺を右側から眺める。
左の方に、もう1体あるのだが、発見は難しい。
当時の人々は崖にわずかな足場を作り、ミイラ化処理した遺体や材料を担いで崖下からよじ登っていたらしい。つまり石棺は完成品を運んだのではなく、崖に掘った穴の中で作ったという。死者の埋葬が終わった後、他者の侵入を防ぐため足場は撤去されたという。
散乱する人骨。
通路にはそこかしこに人骨が散乱していた。盗掘者などによって石棺が破壊され、打ち捨てられたものという。
散乱する人骨。
昔はチャチャポヤス地域全体で数百基もの石棺があったが、度重なる地震と盗掘者による破壊、加えてその価値を知らぬ愚か者たちの銃の的にされてきた結果、その多くが失われてしまったという。
帰路は山道の登りになり、すっかり疲れてしまった。
18時30分頃、チャチャポヤスへ帰った。翌日はクエラップの見学。