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Channel: いちご畑よ永遠に
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広島 大崎下島御手洗地区 旧柴屋住宅 若胡子屋跡 乙女座跡 七卿落遺跡

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旧柴屋住宅。平成25年10月30日(水)前半。大崎下島の御手洗地区の見学、歴史の見える丘公園で起床。昨日15時30分頃に来たが、公開施設が火曜日休みだったため、本日は建物内部を見学することにした。
呉市豊町御手洗は平成6年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。指定理由は「江戸時代の西廻り航路の潮待ち・風待ちの港町として栄えた。町割は形成以来の形態を残し、伝統的な建造物が数多く残っている。常盤町には切妻造・妻入の町家群が建ち並び、住吉町には江戸時代に西国諸藩が利用した船宿の遺構が残る。中小の町家が海岸通りに沿って建ち並び、千砂子波止等の港湾施設と一体となって港町の風情をよく伝えている。」
御手洗地区見学の出発点は海岸通りにある御手洗休憩所。無料駐車場もある。町歩きマップなどを入手し、一番の目玉である若胡子屋方面へ向かい、まず旧柴屋へ。
旧柴屋住宅は呉市指定文化財で、柴屋」は、大長村の庄屋役及び御手洗町の年寄役を代々勤めた高橋家の屋号である。 高橋兄弟の弟政助が大長の本家に、兄種次が御手洗の別宅を所有していた。
文化3(1806)年に伊能忠敬が大崎下島・豊島の調査を行った際には御手洗の町年寄柴屋が宿泊所に指定され、2月30日より3月3日まで滞在した。この時、測量の様子を描いた絵図「伊能忠敬御手洗測量之図」が作成され残されている。文化7(1810)年に広島藩8代藩主浅野斉賢が遊覧のため来島した際には、ここで休憩をとっており御手洗の本陣として利用されていた。
高橋家は製塩業で失敗し、文化10年に不動産一切を投げ出したため、大長村・御手洗町で町用所(町役場)として買い取った。 幕末に入り、大長村出身の菊本伝助が買い取り、米穀問屋から船具・金物商に転じ、昭和50年代まで続いていた。主屋は間口4間、妻入り塗籠造り本瓦葺で土蔵を思わせる外観である。

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旧柴屋住宅。屋敷の形態は、主屋の裏に庭を配し、奥に土蔵を構える。間取りは通り庭に沿って「みせ」「中の間」「座敷」が一列に並ぶ形式を基本とし、部屋と土間のあいだに幅一間ほどの「あがりはな」が奥までのびる。

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旧柴屋住宅。奥の土蔵と中庭。土蔵が展示施設になっており、伊能忠敬の「浦島測量図」「御手洗測量之図」などが展示されていた。夜間の天体観測などが絵巻物にされており、熱心に見てしまった。

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「伊能忠敬御手洗測量之図」。複製。文化3(1806)年2月30日より3月3日まで伊能忠敬が御手洗に滞在し大崎下島・豊島の調査を行った際の測量の様子を描いた絵図。
右端に描かれているのが柴屋政助の屋敷で、ここが本陣であった。海に突き出た庭園といった趣で描かれている。この屋敷の前から隣の大長集落にある東風崎神社と対岸の岡村島を望む構図になっている。大長浜には計測の目印となる「梵天」が各所に立てられている。梵天の位置を計測している人々のうち、黒い着物、黒脚絆の人物が伊能忠敬である。
伊能忠敬測量絵図はこの絵図のほかに1点が現存するのみという。

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乳母車。旧柴屋近くの軒先に置いてあった。現在も使われているのであろう。

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若胡子屋跡。 御手洗は、江戸時代、北前船や参勤交代の諸大名が立ち寄る潮待ち風待ちの港として栄えた。港町には、茶屋を置くことが認められており、若胡子屋は享保9(1724)年に広島藩から茶屋の免許を取得して開業した。熊本藩の細川越中守などは一夜千金の金を落としたといわれる。また、オランダ商館のフィッセルも若胡子屋の酒席に列したと日記に残している。住吉神社造営のときに寄進した玉垣には「モロコシ」「みちのく」「花むらさき」「ひな巻」「若桐」など遊女の源氏名が刻まれている。

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若胡子屋跡。一階。明治元年からは薩摩藩との交易所に転用、明治17年に浄土真宗の寺、昭和28年からは集会所となり、平成12年から観光施設となり、平成23年に修復が完了した。

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若胡子屋跡。二階。有名な伝説「お歯ぐろ事件」は玄関の上にある二階の部屋の壁に残った禿の手の跡にまつわる物語で、額の中に壁が保存されている。

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若胡子屋跡。二階。「お歯ぐろ事件」の壁。昔は人妻になると「お歯ぐろ」をつけて歯を黒く染める習わしがあった。たとえ一夜の妻とはいえ、花魁に「お歯ぐろ」をつけさせて女房気取りで、一夜を契ることは男の甲斐性であった。
ある日のこと。「もーし、おいらんえ、おはぐろつけなんせ」と言葉やさしく、かわいいカムロが、お歯ぐろ壷を花魁の前へ差し出した。花魁はおはぐろをつけはじめたが、この日に限ってうまくつかない。客は金の威光で、まだかまだかと矢のような催促。花魁も気が気でなく、癇は高ぶり、厚化粧の額には青筋が浮かんできた。カムロは、小さな胸を痛めながら震えていた。
「エー口惜しい…」絹を裂くような叫び声をあげて、花魁は煮えたぎったお歯ぐろを、側におったカムロの口にいきなり注ぎこんだ。歯を食いしばり、虚空をつかんで、のけぞって倒れたカムロの口からはお歯くろ混じりの黒血が流れていた。
支度部屋の壁にもたれるようにして死んでいったカムロの顔には、深い恨みがこもり、つり上がった目尻からは一筋の涙がにじんでいた。
それからというものは、ひとり鏡に向かって化粧をする花魁の鏡に、かすかに滅入る様な声で、「も~し、おいらんえ、お歯ぐろつきなんしたか」とカムロの影がうつるようになり、花魁は幾たびか気を失った。さすがに全盛を誇った‘おいらん’もいたたまれなくなり、前非を悔いて、四国八十八ヶ所を巡って、カムロの霊を弔おうと思いたち、今治へ渡ると「も~し、おいらんえ、それでは此処からひとりで行きなんせ」と一言いい残して、カムロの影は消えていったという。
古びた壁に残されたカムロの「お歯ぐろ」の手形は、その後幾度か塗り替えられるたびに、にじみ出て、その跡をとどめていたが。今は消え失せ、遊女たちの筆すさびが残っているのみ。

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若胡子屋跡。裏庭には遊女「やえむらさき」の墓がある。


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若胡子屋跡。薩摩藩から持ってきた桜島の溶岩を練り込んだ土塀。

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娼妓を「おちょろ船」に乗せて稼ぐ光景は御手洗の名物となっていた。
港につないだおちょろ船と呼ばれる船で、船乗り相手の船後家(遊女)商売をはじめたのが、江戸時代末から「おちょろの妓」とよばれる始めになった。

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御手洗は船乗りたちの花街として賑わった。彼女たちは14・15歳で身売りするときは、最終的な決断は自分で下しており、それゆえ、身の上について後悔することは許されなかった。
花街が消えたあとも、宮本常一・山本周五郎の「日本残酷物語」(1959年)や井伏鱒二の随筆、映画「大地の子守唄」(1977年)などで広く世の中に紹介された。

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乙女座跡。乙女座は昭和12(1937)年11月21日に開業した。定員は232名で、劇場では当初、演劇・活動写真を興行していた。戦後は主に映画館として使用されたが。ときには青年団の演劇やダンスパーティーも開催されたという。

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乙女座跡。舞台。

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乙女座跡。傾斜した客席。

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乙女座跡。2階席の手すりから。

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乙女座跡東隣の住宅のバルコニー。モアイに見えるという。

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七卿落遺跡西の洋館。越智醫院の看板がある。営業はしていないようだ。

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七卿落遺跡。幕末,長州藩は三条実美らの公卿と結んで攘夷親征を企てたが,孝明天皇の忌避するところとなり,実美らは禁足を命ぜられた。実美ら七卿は長州勢とともに,文久3(1863)年8月,いったん長州へ下向し,京都の動静が好転をつげた元治元(1864)年7月13日,再び上京の途についた。しかし,長州勢が蛤御門の変に敗れたことを聞き,急遽長州に引き返すことにし,22日鞆で軍議を行い,西風激しい中を23日御手洗に着き,ここで順風を待つために豪商多田家に入って1泊し,翌日長州・上関へ向って出発した。

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七卿落遺跡。内部。何もない。2階は障子が破れて、外から風が入ってくる。

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なまこ壁の屋敷。靹田邸。

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御手洗の町並み。11時近くになったので、御手洗見学を終え、上蒲刈島の平成名水百選「桂の滝」を目指して出発。

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大崎下島・大長港の近くにある資誠堂薬局。映画「ももへの手紙」にも登場した元祖コンビニという触れ込みで、「海陽彩都」という呉の情報誌に載っていたので立ち寄ってみた。創業は明治時代で薬局であるが、新聞・文具・本・酒も扱う島のよろず屋でもある。

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