呉市豊町御手洗は平成6年に重要伝統的建造物群保存地区に指定された。指定理由は「江戸時代の西廻り航路の潮待ち・風待ちの港町として栄えた。町割は形成以来の形態を残し、伝統的な建造物が数多く残っている。常盤町には切妻造・妻入の町家群が建ち並び、住吉町には江戸時代に西国諸藩が利用した船宿の遺構が残る。中小の町家が海岸通りに沿って建ち並び、千砂子波止等の港湾施設と一体となって港町の風情をよく伝えている。」
御手洗地区見学の出発点は海岸通りにある御手洗休憩所。無料駐車場もある。町歩きマップなどを入手し、一番の目玉である若胡子屋方面へ向かい、まず旧柴屋へ。
旧柴屋住宅は呉市指定文化財で、柴屋」は、大長村の庄屋役及び御手洗町の年寄役を代々勤めた高橋家の屋号である。 高橋兄弟の弟政助が大長の本家に、兄種次が御手洗の別宅を所有していた。
文化3(1806)年に伊能忠敬が大崎下島・豊島の調査を行った際には御手洗の町年寄柴屋が宿泊所に指定され、2月30日より3月3日まで滞在した。この時、測量の様子を描いた絵図「伊能忠敬御手洗測量之図」が作成され残されている。文化7(1810)年に広島藩8代藩主浅野斉賢が遊覧のため来島した際には、ここで休憩をとっており御手洗の本陣として利用されていた。
高橋家は製塩業で失敗し、文化10年に不動産一切を投げ出したため、大長村・御手洗町で町用所(町役場)として買い取った。 幕末に入り、大長村出身の菊本伝助が買い取り、米穀問屋から船具・金物商に転じ、昭和50年代まで続いていた。主屋は間口4間、妻入り塗籠造り本瓦葺で土蔵を思わせる外観である。
高橋家は製塩業で失敗し、文化10年に不動産一切を投げ出したため、大長村・御手洗町で町用所(町役場)として買い取った。 幕末に入り、大長村出身の菊本伝助が買い取り、米穀問屋から船具・金物商に転じ、昭和50年代まで続いていた。主屋は間口4間、妻入り塗籠造り本瓦葺で土蔵を思わせる外観である。
右端に描かれているのが柴屋政助の屋敷で、ここが本陣であった。海に突き出た庭園といった趣で描かれている。この屋敷の前から隣の大長集落にある東風崎神社と対岸の岡村島を望む構図になっている。大長浜には計測の目印となる「梵天」が各所に立てられている。梵天の位置を計測している人々のうち、黒い着物、黒脚絆の人物が伊能忠敬である。
伊能忠敬測量絵図はこの絵図のほかに1点が現存するのみという。
ある日のこと。「もーし、おいらんえ、おはぐろつけなんせ」と言葉やさしく、かわいいカムロが、お歯ぐろ壷を花魁の前へ差し出した。花魁はおはぐろをつけはじめたが、この日に限ってうまくつかない。客は金の威光で、まだかまだかと矢のような催促。花魁も気が気でなく、癇は高ぶり、厚化粧の額には青筋が浮かんできた。カムロは、小さな胸を痛めながら震えていた。
「エー口惜しい…」絹を裂くような叫び声をあげて、花魁は煮えたぎったお歯ぐろを、側におったカムロの口にいきなり注ぎこんだ。歯を食いしばり、虚空をつかんで、のけぞって倒れたカムロの口からはお歯くろ混じりの黒血が流れていた。
支度部屋の壁にもたれるようにして死んでいったカムロの顔には、深い恨みがこもり、つり上がった目尻からは一筋の涙がにじんでいた。
それからというものは、ひとり鏡に向かって化粧をする花魁の鏡に、かすかに滅入る様な声で、「も~し、おいらんえ、お歯ぐろつきなんしたか」とカムロの影がうつるようになり、花魁は幾たびか気を失った。さすがに全盛を誇った‘おいらん’もいたたまれなくなり、前非を悔いて、四国八十八ヶ所を巡って、カムロの霊を弔おうと思いたち、今治へ渡ると「も~し、おいらんえ、それでは此処からひとりで行きなんせ」と一言いい残して、カムロの影は消えていったという。
古びた壁に残されたカムロの「お歯ぐろ」の手形は、その後幾度か塗り替えられるたびに、にじみ出て、その跡をとどめていたが。今は消え失せ、遊女たちの筆すさびが残っているのみ。
港につないだおちょろ船と呼ばれる船で、船乗り相手の船後家(遊女)商売をはじめたのが、江戸時代末から「おちょろの妓」とよばれる始めになった。
花街が消えたあとも、宮本常一・山本周五郎の「日本残酷物語」(1959年)や井伏鱒二の随筆、映画「大地の子守唄」(1977年)などで広く世の中に紹介された。