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広島 上蒲刈島 平成の名水百選「桂の滝」 古代製塩遺跡復元展示館 下蒲刈島三之瀬港

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平成の名水百選「桂の滝」。上蒲刈島。平成25年10月30日(水)午後。大崎下島の御手洗から上蒲刈島へ戻り、平成の名水百選「桂の滝」を目指す。事前にネットで調べていたが、やはりナビでも分からない。宮盛にある呉市蒲刈市民センターを尋ね、地図を貰った。田戸トンネル東側を南の山方向へ進む。ミカンがたわわに実る畑の中の離合困難な狭い道を登る。矢印標識に従うが、枝葉に隠れて矢印が途切れた箇所を過ぎて、一旦引き返して確認したりして、結局、ほぼ一本道を山の中へ進むと、精製所の建物が現れた。名水の精製所は1994年に建設され,「桂の滝」のブランドで販売されている。中は無人だった。この山側に桂の滝がある。駐車スペースも広い。

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平成の名水百選「桂の滝」。屋根付きの門が水汲み場への入口。手前には「広島の名水十選 原爆献水碑」と書かれた石碑がある。広島在住の宇根利枝さんが、この桂の滝の水を採水し、原爆慰霊祭に献水供養をしていた事に感銘を受けた大成建設の社長等の力添えにより、この石碑が立てられたという。

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平成の名水百選「桂の滝」。石混じりの道を経て、石段を上ると左に建物があり、その先の中央に筒が2本備え付けられて、水が勢いよく飛び出している。滝というのは谷の急流ということと思われ、その横に石段があるため、石段にも水が流れており、注意して歩行しなければならない。28ℓザックに6ℓほど補給。
桂谷の水は不思議な霊水で、どんな病にも効くといわれる。大正時代に北前船の船長が不治の病を患い、桂の滝の水で病が治ったという。特に眼病,肩こり,できもの,肩こり等に良いとされ、食べ物が食べられない重病人でもこの水は喉を通ったことから「末期の水」にも使われていたという。

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県民の浜。上蒲刈島。日本の渚百選。日本の水浴場55選。桂の滝から田戸トンネルへ戻り、島南東部の海岸へ向かう。県民の浜一帯はリゾート地で、南国風の景観に整備されている。この時期の平日なので、観光客は少ない。来た目的は、この地区にある古代製塩遺跡復元展示館。

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かまがり古代製塩遺跡復元展示館。海岸沿いにあるが、半地下式で、屋根が丘になっていて緑に覆われているため、場所は一見して分からない。環境に溶け込みすぎるのも考え物。
入場無料だが、記名を要請された。私のほかに誰もいなかったので、職員が15分ほど内部をガイドしてくれた。

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古代製塩遺跡復元展示館。内部は、古代土器製塩遺跡である沖浦遺跡を発掘したままの状態で見学できるように復元している。古墳時代、平安時代の製塩遺構が層をなして出土した。
製塩遺構のうち、第1炉は古墳時代の遺構で、敷石炉の大きさは110僉180僉中には20兪宛紊埜毅記僂らいの角の丸い平石が敷かれていた。石は赤く焼け、表面が剥離した跡がある。石の周辺からは古墳時代前半の製塩土器の須恵器、土師器なども出土した。第2~7炉は平安時代の遺構。2001年の調査では4世紀の製塩土器片や鎌倉時代の塩田跡も発見されている。

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古墳時代前半の製塩土器の須恵器、土師器。下段。土器の底部が第1炉から出土した。石のヘラは土器の内面から塩をこそぐ道具。

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土器製塩。海水から製塩するためには、水分を蒸発させればよいが,たくさんの燃料が必要となる。そのため,あらかじめ海水の塩分濃度を高くし,濃くした液を煮沸、その後,塩を焼いて不純物を取り除き保存しやすくする作業(焼塩)が行われていた。
縄文時代から平安時代は,海水を濃くするのに海藻を,煮沸・焼塩をするのに小型の土器を使っていた。塩作りの土器は薄く作られ,煮沸したり,塩を焼いたりするため,赤く焼けたり,ひび割れたりして,細かな破片になっている。できあがった塩の形は粉末状ではなく固形になることが多かった。

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製塩の想像図。芸予諸島とその周辺地域では,製塩遺跡は,弥生時代の数は少ないが,古墳時代前半(4世紀頃)になると,たくさん出現した。最も盛んになるのは,古墳時代後半(6世紀後半)の時期で、従来と比較にならない程の生産が行われた。当時のヤマト王権の大きな関与があり,大部分は近畿地方に運ばれたと考えられる。この時期は,近畿地方周辺部の土器製塩が衰え,それまで頼っていた福井県・兵庫県の生産量でも足らず,瀬戸内中部地域に頼ったと考えられる。

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「藻塩焼き」で作られた藻塩。ホンダワラなどの海藻から作った塩のことで、淡いベージュ色の藻塩は、海水と海藻のうま味が凝縮した、尖りのない、まろやかな口あたりが特徴という。

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製塩体験施設。館に隣接して設けられている。

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製塩体験の様子。
30分ほど見学して、下蒲刈島三之瀬へ向かう。

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下蒲刈島三之瀬港の風景。三之瀬港江戸時代安芸国の公認の海駅として栄えた。当時の海上航路は、本土沿いの航路が用いられ、本陣、番所のある施設の海駅が指定された。西国大名の海路による参勤交代、朝鮮通信使、オランダ、琉球使節の江戸への往来などに利用され、諸国の廻船の来泊も盛んであった。広島藩はここで朝鮮通信使を接待し、通信使は饗応された食事を「安芸蒲刈御馳走一番」と幕府に答えている。
17世紀後半から木綿帆が使われるようになると、船は蒲刈島の沖を抜けるようになり、三ノ瀬の港は衰退し、大崎下島の御手洗港が潮待ち、風待ちの港として栄えるようになった。

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三之瀬港の風景。蘭島閣美術館付近。蒲刈大橋の下にある呉市下蒲刈市民センターに駐車して散策。海駅三之瀬でじゃこ天を食べた。周辺の美術館群は復元、移築などでオリジナルなものはない。倉橋島へ行く時間が必要なので、散策するだけにして、福島雁木のみ見学することとした。

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三之瀬港。福島雁木。17世紀初め、広島藩主福島正則が築いた「がんぎ」。幕命により本陣を設ける際、船着きの便をはかって造られた。最初は現在の少し前方に、築いしたが、潮流で一夜のうちに崩壊したため、中程に折れ目を入れて築き直したといわれる。船をつなぐ石製もやい柱も残っている。
14時15分頃、倉橋島桂浜へ向かう。

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