平成25年10月30日(水)後半。下蒲刈島三之瀬港を14時15分頃出発し、倉橋島桂浜へ向かう。広からは呉市街を経由せずに、半島東側道路を通ると、ナビで推奨されないことが納得できる狭い道で、片側通行用の信号もあるような道だった。音戸大橋を通った先も、結構遠かった。15時20分頃桂浜に着く。
桂濱神社。倉橋島桂浜。桂浜に着いて、温泉館・歴民共用の駐車場に駐車。まず、桂濱神社へ。祭神は当初、海人の神宗像三女神であったが、後に多賀谷氏によって宇佐八幡宮から三神が勧請され武将の祀る神となった。多賀谷氏は鎌倉時代に武蔵から伊予の地頭として移住、南北朝期には上・下蒲刈島、倉橋島へと北上、それぞれの島々を領有した。倉橋多賀谷氏は大内氏との関係が深く、厳島合戦のとき陶晴賢・大内義長方に付いたため、毛利元就方に攻められて滅亡した。
桂濱神社。本殿。重文。本殿は文明12(1480)年に建立された。杮葺き前室付き三間社流れ造で。南北朝時代の建築的特徴をもち、全体に木細で、庇の柱まで円柱にするなど類例のない建物である。
桂浜。倉橋島は古来長門島とよばれ、瀬戸内海交通の要衝であった。遣唐使などの大型船は倉橋島沖ルートを通ったようである。
桂浜。万葉集遺跡長門島松原。遣新羅使がこの地に停泊したさいの望郷の歌が万葉集に残され、その歌碑が桂浜に建てられている。砂浜の奥に長門の造船歴史館が見える。
桂浜。船渠(ドック)跡。古くから和船の建造は砂浜で行われていたが、造船業の盛んな倉橋島では江戸時代の元文・寛保(1736~1743)の頃、天然の入江を改良した「船渠」が桂浜の西側に築造された。満潮時に船を入れ、干潮時に入口を堰き止め、和船の引き揚げ、進水を効率よく可能にした。明治15年に西洋型船に対応するため、改修された。現在は南側を封鎖し、西側を開いている。
桂浜。船渠(ドック)跡。説明図。
桂浜。長門の造船歴史館。歴民と共通で400円。
桂浜。長門の造船歴史館。遣唐使船は主に安芸で造られたという。1989年に復元された遣唐使船。100t弱で、全長25m、幅7m。中国のジャンク型構造船。2本マストに網代帆という竹材の帆を張った。甲板上部の宮造りの船室には大使・副使などの外交使節が乗り込んだ。
甲板まで見学できる。
甲板まで見学できる。
桂浜。長門の造船歴史館。戦国時代の軍用船・安宅船の模型。造船と海運の歴史が模型船などで展示されている。
このあと、歴民を見学。せっかくなので、天然温泉桂浜温泉館に入浴。600円。
16時45分頃、呉市安浦にあるコンクリート船武智丸見学へ向かう。
このあと、歴民を見学。せっかくなので、天然温泉桂浜温泉館に入浴。600円。
16時45分頃、呉市安浦にあるコンクリート船武智丸見学へ向かう。
コンクリート船武智丸。安浦漁港。説明板。安浦漁港にあることは知っていたが、ナビに漁港は出てこなかった。薄暮くなった17時30分過ぎ、安浦駅南の海岸沿いへ入ると工場地帯に出た。工場にいた女性事務員に尋ねると国道を東に進んで、牡蠣工場の看板の右だと教えてもらった。そこへ着いたが、暗くて分からず。牡蠣工場に帰ってきた軽トラの人に尋ねると、海側にある柵から入れば分かるという。海側に行くと、桟橋に夜釣り人が5人ほどいた。しかし、ここではない。桟橋入口付近に戻り、柵が連なっているのが見え、桟橋と反対方向に説明板が立てられていた。なお、地番は三津口2丁目先だった。
コンクリート船武智丸。立入危険の看板があり、入れるのかと思ったら、簡単に入ることができた。
コンクリート船武智丸。鉄製の通路が200mほど続いている。昇降箇所があるのは船の船室部分と甲板の高低差があるため。船体の西側に通路が設置されている。
通路左側にはコンクリート船第一武智丸と第二武智丸が繋がれて防波堤の役割を果たしている。
通路左側にはコンクリート船第一武智丸と第二武智丸が繋がれて防波堤の役割を果たしている。
コンクリート船武智丸。
昭和19年から20年にかけ、船舶建造用鋼材の不足を解消する手段として、旧海軍艦政本部が依頼して兵庫県高砂市の武智造船所で世界初の鉄筋コンクリート船4隻が建造された。
「武智丸」は、主に瀬戸内海において石炭などの輸送に運用された。戦争末期は米軍の投下した機雷のため、鋼鉄製の輸送船が瀬戸内海で触雷して被害を被っていたが、「武智丸」は触雷することもなく航行したという
漁港の安浦港には防波堤がなく、台風が来るたびに被害が生じていた。そこで漁業関係者が呉に放置されたままのコンクリート船の「第一武智丸」に目を付け、コンクリート船を沈めて防波堤にすることを発案。もう一隻「第二武智丸」が大阪にあることを知り、これら2隻の払い下げを国に願い出て、昭和24年から25年にかけ払下げを受けた。2隻は漁港の防波堤として、現在地に沈設された。1隻の全長は64.5m、幅10mである。
昭和19年から20年にかけ、船舶建造用鋼材の不足を解消する手段として、旧海軍艦政本部が依頼して兵庫県高砂市の武智造船所で世界初の鉄筋コンクリート船4隻が建造された。
「武智丸」は、主に瀬戸内海において石炭などの輸送に運用された。戦争末期は米軍の投下した機雷のため、鋼鉄製の輸送船が瀬戸内海で触雷して被害を被っていたが、「武智丸」は触雷することもなく航行したという
漁港の安浦港には防波堤がなく、台風が来るたびに被害が生じていた。そこで漁業関係者が呉に放置されたままのコンクリート船の「第一武智丸」に目を付け、コンクリート船を沈めて防波堤にすることを発案。もう一隻「第二武智丸」が大阪にあることを知り、これら2隻の払い下げを国に願い出て、昭和24年から25年にかけ払下げを受けた。2隻は漁港の防波堤として、現在地に沈設された。1隻の全長は64.5m、幅10mである。
コンクリート船武智丸。船橋甲板跡。細いコンクリート支柱が林立している。規則正しい釘穴があるのは甲板の板張りを固定した跡と思われる。
コンクリート船武智丸。コンクリート製の甲板部分。
暗闇のため、部分的にしか見ることができなかった。倉橋島と御手洗の時間調整の失敗のため、行程上時間がとれなかったが、確かに武智丸の存在を確かめることはできた。
道の駅「竹原」へ向かった。翌日は大崎上島の木江地区、大久野島、竹原、東広島の西条周辺を見学した。
暗闇のため、部分的にしか見ることができなかった。倉橋島と御手洗の時間調整の失敗のため、行程上時間がとれなかったが、確かに武智丸の存在を確かめることはできた。
道の駅「竹原」へ向かった。翌日は大崎上島の木江地区、大久野島、竹原、東広島の西条周辺を見学した。