Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

ペルー リマ ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館 その1

$
0
0
イメージ 10
ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館。施設入口。
2015620()
世界遺産リマ歴史地区の見学を終え、13時過ぎにタクシーで国立考古学人類学歴史学博物館へ向かったが、臨時休館のため、近くにあるラファエル・ラルコ・エレーラ博物館へ向かった。14時頃に入館し、17時頃に見学を終えた。
 
イメージ 1
ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館。施設入口から登った博物館のある高台から。
高台になっている理由は、7世紀のピラミッドの上に建てられたからである。
 
イメージ 2
ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館。建物入口。
18世紀のペルー副王の邸宅が博物館に転用されている。
創設者はペルーを代表する考古学者のラファエル・ラルコ・オイレ(19011966)で、ラファエル・ラルコ・エレーラは彼の父である。
ラファエル・ラルコ・エレーラ(18721956)はトルヒーヨ近くのチカマ渓谷の大農場主一族で、ペルーの外務大臣や副大統領を歴任した政治家でもあった。
 
ラファエル・ラルコ・オイレはアメリカのコーネル大学で農学を学んだのち、1923年ペルーに帰り砂糖農園の経営にあたる一方北海岸の古代文化に興味を持ち、遺跡の調査を始めた。
1925年にラファエル・ラルコ・エレーラが義兄弟のアルフレッド・オイレから600点の古代の土器を譲渡されると、息子のラルコ・オイレはその管理を任され、さらに父の援助を得て14千点以上のコレクションを購入して1926年農場内に父の名を冠した博物館を設立し、1953年にリマに移設した。
 
この博物館には、ペルー北海岸に栄えたモチェ文化の土器を中心に、アンデス文明に関する貴重な個人コレクション約45000点が展示されている。
 
イメージ 3
ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館。中庭。
博物館の周囲や中庭には赤やオレンジのブーゲンビリアが咲き誇っている。奥には田園造りのカフェ・レストランもある。
 
イメージ 4
カルロス・ラルコ・エレーラ。
78日に日秘文化会館の日本人移住史料館を見学したさい、企画展で「カルロス・ラルコ・エレーラ」が紹介されていた。彼は在トルヒーヨ日本名誉総領事で、日本人移民社会と深く関わっていた。
 
カルロスはラファエルの兄で、弟と農場を半分ずつ所有し、日本人移民を砂糖農園で雇用していた。1937年に人類学者鳥居龍蔵がチカマの博物館を見学したさい、ホストはカルロスで、博物館を案内したのが甥のラルコ・オイレであった。
鳥居の帰国後、太平洋戦争が勃発し、連合国側のペルーは、移民である日系人を収容所に送り込んだ。当時、カルロスは、中立国であったスイス領事も兼ねていたため、この地位をうまく利用して日系人を終始守り抜いたという。1955年には、日本政府から勳三等を受賞し、また来日して鳥居とも再会を果たしている。
 
イメージ 5
ラルコ・オイレはクピスニケ、サリナル、ビルー、その他の遺跡を発見し、モチェ文化を中心とする北海岸先スペイン文化の編年研究に尽くした。
 
日本語の説明文や解説シートが完備しており、展示は理解しやすい。ほかにスペイン語、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語で解説されている。

ただし、資料は購入されたものが多く、学術調査による発掘ではないため、出土状況は解明されない。
ペルー人考古学者による資料解釈としては有効。また、形成期は少ない印象。
 
イメージ 6
ガイダンスルーム。
 
イメージ 7
金メッキ銅の上衣。北海岸。
AD1~8世紀。
ビクス文化の金メッキ銅製円板。儀礼用の上衣を着用した人物を表したモチェ文化の土器。
金の円板は、北部地方において様々な衣装の装飾として早期から使用されている。
 
儀礼用の上衣は地位と権力の重要な象徴だった。最も技巧を凝らした上衣は吊り状あるいは薄板状の貴金属装飾を伴っており、上衣を着用した人物の動きに合わせて光や音を発した。また、為政者が死を迎えた際にも使用された。
 
イメージ 8
葬儀用品のミニチュア。北海岸。
AD116世紀初頭。
チムー文化の葬儀用具一式。上衣、腰布、銀の魚で装飾された肩飾り、額飾り、楽器、毛抜き、袋などの道具類。銀の箱と胸当て(チムー文化)
ミニチュアの銅製ポーラ(モチェ文化)。
 
北部地方の埋葬跡からは、副葬品とされたミニチュア群が発見されている。ミニチュア群は、埋葬、ウミギク貝の獲得、儀礼の装束など重要な神話に関連した一つのテーマを持っていることが多い。
 
イメージ 9
死者を納めた棺を運ぶ様子が絵付けされた土器。モチェ文化。
AD18世紀。
織物の人形3体。女性たちが死者の体を布で包み、埋葬の準備をする様子。チャンカイ文化。帝国期。AD1416世紀初頭。
 
古代アンデスでは、死は新たな生命の始まりにすぎないという確信が存在していた。そのため、高位の人物の墓には、存命中にその人物が有していた全ての富が納められたほか、死後の世界のために特別に作られたと考えられる装身具なども存在している。
葬儀は、宗教によって取り決められた長く複雑なプロセスであり、死者の身体の支度から墓あるいは霊廟の建設、副葬品の制作、埋葬などによって成り立っていた。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles