忠海。石風呂温泉旅館岩乃屋。平成25年10月31日(木)。大崎上島、大久野島、黒滝山見学後、忠海港の西にある石風呂温泉へ向かった。国道から狭い道を抜けると浜辺に着き、旅館の受付で料金1200円を支払い、貴重品を預ける。愛想のいい女将さんから水着があるか尋ねられたが、当然このために持参してきた。入浴方法は常連が教えてくれるとのこと。旅館の脇を抜けると、大久野島や大三島などの島々が目前に広がる海辺に沿って建てられた石風呂が見えてきた。
石風呂は蒸し風呂でサウナみたいなものだ。奈良の法華寺に光明皇后が造った蒸し風呂があり、昨年重源に関わる石風呂を山口県の山間部・海岸部で見学したので、関心を持った。そういえば、テレビでも見た記憶がある。
かつては瀬戸内地方に80ヶ所を超える石風呂があったという。ここの石風呂自体は開業が昭和23年と新しいが、常時営業している石風呂では日本で唯一になってしまった。
石風呂は蒸し風呂でサウナみたいなものだ。奈良の法華寺に光明皇后が造った蒸し風呂があり、昨年重源に関わる石風呂を山口県の山間部・海岸部で見学したので、関心を持った。そういえば、テレビでも見た記憶がある。
かつては瀬戸内地方に80ヶ所を超える石風呂があったという。ここの石風呂自体は開業が昭和23年と新しいが、常時営業している石風呂では日本で唯一になってしまった。
石風呂。入口左奥に脱衣所があり、水着になる。右奥は休憩所で、10人ほどが、寝そべっている。棚にドンゴロス(麻袋)と木枕が並べてあり、自分のスペースを確保するようアドバイスされた。ドンゴロスはマニラ麻で造られた袋で、フィリピン戦線で将兵が野宿するときに使用したと読んだことがあり、実物を使えたのも感慨深いものがあった。
右の部屋に石風呂部屋があり、内部は低温40~60℃、高温60~90℃の二つの室に分かれている。
木の扉を開き洞くつのような空間に入ると八畳ほどの広さで、濡れ筵とアマモという海藻が敷きつめられている。最初は低温室の方に入ったが、蒸気は暑く、息苦しい。団扇で空気をかき回す。体に海藻がへばりつく。13時30分過ぎになり、ちょうど高温室が入浴可能になったというので、意を決して入室した。強烈な暑さなので、口や鼻を床に近づけタオルで覆うが、2分ほどで出た。石風呂部屋の海側には海水を沸かした潮湯があり、ここで海藻を取り払い、体を洗った。
なお、中での写真撮影は雰囲気的に難しかった。
右の部屋に石風呂部屋があり、内部は低温40~60℃、高温60~90℃の二つの室に分かれている。
木の扉を開き洞くつのような空間に入ると八畳ほどの広さで、濡れ筵とアマモという海藻が敷きつめられている。最初は低温室の方に入ったが、蒸気は暑く、息苦しい。団扇で空気をかき回す。体に海藻がへばりつく。13時30分過ぎになり、ちょうど高温室が入浴可能になったというので、意を決して入室した。強烈な暑さなので、口や鼻を床に近づけタオルで覆うが、2分ほどで出た。石風呂部屋の海側には海水を沸かした潮湯があり、ここで海藻を取り払い、体を洗った。
なお、中での写真撮影は雰囲気的に難しかった。
石風呂と旅館の前は海水浴場になっていて、おばさんが一人泳いでいた。そのおばさん達が潮湯の横にコンロを置いて銀杏を焼いており、食べて食べてというので、遠慮なく頂いた。常連さんたちが、運営している形になっていて、一見の客も含め和気あいあいの雰囲気で心地良い。若い女性が一人でやってきて、常連に色々教えられていた。
私が受付へ戻ると、女将さんが、もうお帰りですかと声を掛けてきた。
14時頃になり、この先も予定ポイントはまだ多い。往路と違い、竹原方向へ出る国道までの道は広かった。
私が受付へ戻ると、女将さんが、もうお帰りですかと声を掛けてきた。
14時頃になり、この先も予定ポイントはまだ多い。往路と違い、竹原方向へ出る国道までの道は広かった。
竹原。安芸の小京都といわれる重伝建地区。呉と同じく18年前に見学しているので、外してもよかったのだが、普明閣など記憶がないので、もう一度訪れることにした。道の駅竹原が良い出発点になっている。さすがに観光客は多い。
西方寺普明閣。西方寺の境内前面には、一見城郭を思わせるような壮大な石垣がある。高い石段を登ってようやく辿り着いた。普明閣は西方寺本堂横の高台に位置している。
小早川隆景が京都の清水寺を模して創建したと伝える普明閣は宝暦8(1758)年の建築。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっているが、清水寺よりは規模が小さい。
小早川隆景が京都の清水寺を模して創建したと伝える普明閣は宝暦8(1758)年の建築。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっているが、清水寺よりは規模が小さい。
西方寺普明閣から北を望む。
観光客の若い男性数人と、話し込む地元の婦人二人を見かけた。
観光客の若い男性数人と、話し込む地元の婦人二人を見かけた。
西方寺普明閣から南を望む。海岸から近いことが分かる。
復古館と春風館。春風館は頼山陽の叔父、頼春風の家。春風(1753~1825)は大阪で医学と儒学を学び、安永2(1773)年に帰郷し医業を開業、塩田経営にも乗り出した。天明元(1781)年に春風館を建築。春風は家業のかたわら、学問にも力を入れ、町の子弟の教育にあたり、竹原の文化の向上に尽力しました。建物は安政元(1854)年に焼失し、安政2年に再建されました。長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の建物は重文だが、内部非公開。
復古館は 頼春風の養子小園が春風館の西側に安政6(1859)年に三男の三郎を分家、独立させて、復古館の主屋を建てた。
復古館は 頼春風の養子小園が春風館の西側に安政6(1859)年に三男の三郎を分家、独立させて、復古館の主屋を建てた。
頼惟清旧宅。日本外史の著者として知られる 頼山陽の祖父、 惟清が紺屋を営んでいた家。先祖は小早川氏の家臣で、三原の頼兼に住んでいたが、惟清の曽祖父総兵衛の時に竹原に移り住み、海運業と農業を営んだ。 二代目弥七郎の時紺屋をはじめ、四代目惟清の時この家に移り、父弥右衛門の意志をついで、子供達に学問をさせ、長男春水(頼山陽の父)は広島藩儒となり、幕府の昌平黌で講義をするなど高名な学者になった。 春風も医者、儒者として春風館を建て、学問の向上に寄与し、杏坪も広島藩儒となり、三次代官をつとめ、芸藩通志の編纂を行った。
頼惟清旧宅。建物は間口4間、奥行7.5間の入母屋、塗込め造りの主屋と南側に直角に棟を出した離れ座敷がある。建築は安永四年(1775)頃と考えられており、竹原の代表的な町家とされる。この建物は、頼一門の発祥の地として、また江戸中期の遺構がよく残っており県史跡として指定されている。
無料で町屋の敷地内に入れる貴重な建物。
道の駅「竹原」へ戻り、北西の東広島市西条方面へ向かう。
無料で町屋の敷地内に入れる貴重な建物。
道の駅「竹原」へ戻り、北西の東広島市西条方面へ向かう。
木村城跡。県史跡。木村城跡は竹原小早川氏が本拠とした山城跡である。小早川氏は鎌倉時代の初め沼田(ぬた)庄の地頭職をえて相模国の本拠から西遷した。承久の変後に,沼田小早川茂平の四男政景が正嘉2(1258)年都宇・竹原庄の地頭職を得て入部し、この城に拠り、この系統は竹原小早川氏とよばれた。応仁の乱後は惣領家をしのぐ勢力となり,両家は戦国時代に争闘を繰り返した。毛利元就の三男隆景が天文13(1544)年に竹原小早川家を相続し木村城へ入り、さらに天文20年沼田小早川家を相続して本拠を沼田高山城に移した。
国道432号線沿いにある和賀神社を目標にして進み、神社を越すと標識があり、東の脇道へ入る。標識に従うと車道の終点に木村城の登城口があり、説明板もあった。時間がないので、城の実地見学は次の鏡山城跡が整備されているであろうと、外観だけの見学にした。
国道432号線沿いにある和賀神社を目標にして進み、神社を越すと標識があり、東の脇道へ入る。標識に従うと車道の終点に木村城の登城口があり、説明板もあった。時間がないので、城の実地見学は次の鏡山城跡が整備されているであろうと、外観だけの見学にした。
木村城跡。北西側から賀茂川、国道越しに標高150mの城山を眺める。城跡は,本丸,二の丸,三の丸など12以上の郭からなり,井戸,土塁跡なども残っている。北側は,末宗川,西側は賀茂川に狭まれた天然の要害となっていた。
竹原小早川氏は、ここを本拠に音戸の瀬戸や瀬戸内海方面に勢力を伸ばして、さらには中国との貿易も行っていた。 毛利元就が後年中国地方を制圧できた大きな力が水軍力であったが、これはひとえに小早川氏と瀬戸内水軍を配下にすることができたからである。
国道2号線バイパスを西進し、西条盆地のほぼ中央、広島大学近くの鏡山城跡のある鏡山公園へ向かう。
竹原小早川氏は、ここを本拠に音戸の瀬戸や瀬戸内海方面に勢力を伸ばして、さらには中国との貿易も行っていた。 毛利元就が後年中国地方を制圧できた大きな力が水軍力であったが、これはひとえに小早川氏と瀬戸内水軍を配下にすることができたからである。
国道2号線バイパスを西進し、西条盆地のほぼ中央、広島大学近くの鏡山城跡のある鏡山公園へ向かう。
鏡山城跡。国史跡。室町時代後期、安芸と備後は、東の細川氏と西の大内氏の勢力が拮抗する地域であった。大内氏は鏡山城を安芸・備後国の政治的拠点と位置付け、長禄・寛正年間(1457~66年)に築城し、安富行房や陶興房らの重臣を東西条代官に任命し、安芸国の穀倉地帯であった東西条(現在の東広島市南部と呉市の一部)支配の拠点とした山城である。
大永3(1523)年尼子経久に従っていた毛利氏当主毛利幸松丸の後見人である毛利元就は、大内方の蔵田房信の守る鏡山城を攻めたが、戦線は膠着。元就は、計略で蔵田家の家督の継承を条件に房信の叔父直信を寝返らせて、尼子軍を城内に手引きさせ、鏡山城は落城、房信は自害した。蔵田直信も戦後、裏切り者として尼子経久により殺害された。元就はこの鏡山城の戦いで勇名を馳せる。
鏡山城落城により、大内氏の勢力は一時的に大きく後退した。2年後にこの地域を取戻した大内氏は、拠点を八本松町の杣城・槌山城に移し、鏡山城はその役割を終えたとされる。
登城案内図により、比高110mの山頂へ登って行く。整備されているが、麓の道は水に浸かった部分が多い。
大永3(1523)年尼子経久に従っていた毛利氏当主毛利幸松丸の後見人である毛利元就は、大内方の蔵田房信の守る鏡山城を攻めたが、戦線は膠着。元就は、計略で蔵田家の家督の継承を条件に房信の叔父直信を寝返らせて、尼子軍を城内に手引きさせ、鏡山城は落城、房信は自害した。蔵田直信も戦後、裏切り者として尼子経久により殺害された。元就はこの鏡山城の戦いで勇名を馳せる。
鏡山城落城により、大内氏の勢力は一時的に大きく後退した。2年後にこの地域を取戻した大内氏は、拠点を八本松町の杣城・槌山城に移し、鏡山城はその役割を終えたとされる。
登城案内図により、比高110mの山頂へ登って行く。整備されているが、麓の道は水に浸かった部分が多い。
鏡山城跡。堀切。城跡には造成された郭、急峻な切岸、堅掘など城の防御遺構も良好に保存されている。
鏡山城跡。5槨。下のダバ。東西30m、南北15mで2槨に次ぐ大きさ。2槨との比高差は約13mある。入口の東側には土塁が築かれており、その北側には方形の低い段が設けられている。
公園の案内図地点から12分経過。
公園の案内図地点から12分経過。
鏡山城跡。井戸。5槨。
鏡山城跡。3槨、馬のダバ。帯郭の形をしている。直上に2郭がある。
鏡山城跡。2郭、中のダバ。東西50m、南北15mと細長いが、鏡山城の中で最も広い郭で、西の1槨とともに本丸を形成している。周囲の切岸は急峻。上中下の3段に分かれており、上・中段の南側には幅1mの土塁が築かれている。また、井戸跡が2基残っている。
鏡山城跡。2郭、中のダバ。井戸跡。
鏡山城跡。1郭。御殿場。鏡山城で最も高い場所にある槨。東西30m、南北11mで西側が突出した方形をなしている。方形の上段とL字状にそれを取り囲む下段からなり、礎石建物があった。この建物の存在から御殿場とよばれた。
入口看板地点から20分弱で到着。
入口看板地点から20分弱で到着。
鏡山城跡。1郭。御殿場。西の高所。石が積まれているような感じがするが不明。
鏡山城跡。1郭から北東方面。西条市街地がよく見える。安芸国分寺もこの方向。
鏡山城跡。1郭から北西方面。建物群は広島大学であろうか。
鏡山城跡。1郭から南方面。
時間がないので、すぐに下山し、西条市街地にある三ツ城古墳へ急ぐ。
時間がないので、すぐに下山し、西条市街地にある三ツ城古墳へ急ぐ。