Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

広島県 東広島市西条 三ッ城古墳 安芸国分寺跡 四日市冥加の水

$
0
0
イメージ 1
東広島市。三ッ城古墳。国史跡。平成25年10月31日(木)終盤。東広島市西条南郊の鏡山城跡見学を終え、北進し西条市街地にある三ッ城古墳を目指す。16時30分頃、市立中央図書館駐車場の北西端から三ッ城古墳を見下ろす。
三ッ城古墳のうち第1号古墳は県内最大の前方後円墳で、全長約92m、後円部の直径約62m、高さ約13m、前方部の幅約66m。平成21年には、出土した須恵器の研究から、築造年代が412年ごろであるとする見解が発表された。被葬者は安芸南部を中心とした首長と考えられている。安芸国分寺の存在と併せ考えると、古代は西条が安芸の行政の中心地であったと推定できる。
三ッ城古墳は整備され公園となっている。小学校近くの公園へ移動。

イメージ 2
三ッ城古墳は西条盆地のほぼ中央にある八幡山から北に伸びる丘陵の先端を成形して造られた。古墳は周囲の平地より高い場所に造られたが、古墳の両側および正面には古墳より高い尾根があるため、古墳からの眺めがさえぎられ、奥まった場所に立地している。案内図では中心やや右下に赤く示されている。

イメージ 3
三ッ城古墳第1号古墳後円部の南側に直径25mの円墳が1基(第2号古墳)あり、第2号古墳の周溝内には楕円形の墳丘をもつ第3号古墳がある。
第2号古墳は年代的には第1号古墳よりも古い時代の築造とされる。第3号古墳は第2号古墳の南西側に隣接して築造されており、長径8m、短径4mの楕円形となっている。第1号から第3号の中で、この第3号が最も新しいとされる。

イメージ 4
三ッ城古墳第1号古墳は3段築成で、東西に造り出しがある。

イメージ 5
三ッ城古墳第1号古墳の墳丘には葺石が葺かれ、1,800本の円筒埴輪や動物・武具・家などの形象埴輪が置かれていた。

イメージ 6
三ッ城古墳第1号古墳の後円部には箱形石棺3基の埋葬施設があり、中から鏡や玉類・武器などの副葬品が多量に出土した。
埋め戻された箱型石棺はアクリル板越しに上から眺めることができるようになっている。

イメージ 7
三ッ城古墳第1号古墳。1号埋葬施設。この埋葬施設は最初に造られたもので、人を葬った箱型石棺の周りを石槨が包み込む形のもの。石棺は長さ1.7m、幅30~40僉⊃爾30僂如⊂欧1枚の敷石がある。石槨の大きさは長さ2.3m、幅80僂如∪亟宗石槨のそれぞれに石の蓋が載る二重の構造になっている。石棺の中から、女性と思われる人骨と、鏡、首飾り、蓋石の左右から鉄刀2本が出土した。

イメージ 8
三ッ城古墳第1号古墳。2号埋葬施設。箱型石棺の周りを石槨が包み込む形の構造。石棺は長さ2.5m、幅30~50僉⊃爾45僂如∪俑擇歪垢2.5m、幅1m。石棺・石槨のそれぞれには石の蓋が載る。
石棺の内側には朱が塗られ、石棺の中には壮年の男性の人骨、首飾り、櫛、腕輪、鉄刀などがあった。

イメージ 9
三ッ城古墳第1号古墳。2号埋葬施設。

イメージ 10
三ッ城古墳第1号古墳。3号埋葬施設。箱型石棺は長さ1.7m、幅30僉⊃爾30僂如⊂欧2枚の敷石が並べられていた。2号石棺に続いて造られた。
石棺を納めるために掘られた穴は、長さ3.6m、幅2mの長方形で、石棺との間に遺物を入れた穴を別に掘っている。
石棺の中には首飾り、鉄剣があり、石棺の外側の穴には鉄の鉾と鉄の鏃が納められていた。
このあと、安芸国分寺跡へ向かう。山陽本線西条駅の北東にあるが、市内通過に手間取り、さらに狭い道路を進むので、時間がかかった。

イメージ 11
安芸国分寺跡。国史跡。奈良時代天平勝宝2(750)年頃には本尊仏を安置する金堂や僧侶が修行を行う講堂が建ち、様々な法会が行われていたことが発掘調査で明らかになった。少し遅れて塔や僧房が造営され、国分寺の維持管理を管掌した大衆院や僧侶の育成・指導や法会などを執行した国師のための国師院も建てられた。平安時代の中頃には、塔が消失したが、金堂や講堂は屋根の葺き替えを経て引き続き建っていたと推定される。
寺跡は安芸国分寺歴史公園になっている。
安芸の国府は当初、この西条の地に置かれ、のちに府中町へ移転したという説がある。

イメージ 12
安芸国分寺。本堂。もとの安芸国分寺の金堂跡に覆い土をして建てられた。金堂には本尊仏が安置されており、東西33m、南北22m、高さ1mの石積み基壇上に、正面7間、奥行4間の寄棟造本瓦葺の建物が礎石の上に建っていた。
17時10分頃に出て、西条の酒蔵通りで名水の水汲みをしようと、駅前市街地へ向かう。

イメージ 13
酒都西条の白壁酒蔵と赤レンガの煙突。酒には興味はないが、名水が多いということなので、水汲み場を探して、西国街道(旧山陽道)の狭い道を西へ進むと、くぐり門の観光案内所に遭遇。17時15分頃で閉まりかけだったが、尋ねてみると、ほとんどの水汲み場は17時で閉まるが、道端のものは可能かも知れないとのこと。無料駐車場はどうかと尋ねると、市役所駐車場なら1時間は無料ということだった。
市役所無料駐車場から歩くと、退勤の職員らしき男性から呼び止められたので、事情を話すと、幾つかは水汲み可能という。北へ歩くと、「いちの水」があり、止水されていたので、敷地内の事務所に尋ねると、ニべもなく断られた。仕方なく、北へ歩いて先ほどの西国街道に出て、東に進むとすぐに、運よく四日市冥加の水に遭遇した。

イメージ 14
四日市冥加の水。白牡丹酒造の北西端に位置し、西国街道沿いにある。
白壁の蔵に掛けられた説明板には、「 此処、西條が四日市と呼ばれていた旧藩時代の記録によると、四日市の井戸の水は「冥加の水」と言われていました。 冥加とは「目には見えない神仏のお助けを戴くことができる」と言い伝えられてきた故事に由るものであります。
当時、山陽道の宿場町として賑わった四日市は、四方山に囲まれた盆地の中にあって、旅人がここまで辿り着くには、急な坂道山道を登り続けて、やっと辿り着くという旅人にとっては大変な難所でありました。ようやく辿り着いた宿で、渇いた喉を潤す一杯の水、四日市の井戸の水は、まこと「冥加の水」として旅の疲れを癒したにちがいありません。
日本酒白牡丹は延宝3年(1675年)創業以来、この「冥加の水」を仕込み水として、300年以上使い続けて、その時代毎に皆様に愛される「うまい酒」を醸しだしています。これからも、皆様に「冥加の酒」と言って頂けるよう酒造りに精進してまいります。白牡丹酒造株式会社。」と記してあった。

イメージ 15
四日市冥加の水。水汲み場。竹筒から立蹲踞状の石に水が落ちている。落差は小さいが、小さいペットボトルなら充分に充填可能であった。
酒造りには名水が不可欠なので、酒造地では水汲み可能な所が多い。
17時40分頃になり、すっかり暗くなった道を市役所へ帰った。大崎上島木江、大久野島、竹原からの長い一日が終了した。翌日は鷹ノ巣山登山を予定していたので、西条の北にある道の駅「福富」へ向かった。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles