鷹ノ巣山(左)とカンノキ山(右)。道の駅「福富」から。平成25年11月1日(金)。東広島市西条の北にある道の駅「福富」で起床。幹線から外れていて、山間部なので駐車車両は少ない。道の駅入口付近から、鷹ノ巣山とカンノキ山の双耳峰が奥の方にはっきりと見えた。V字型の底が鞍部で、左に登って山頂という登山コースになる。
本日は鷹ノ巣山登山、世羅町を経て、三次でワニ料理と三吉氏の居城・比叡尾山城跡の見学を予定した。
本日は鷹ノ巣山登山、世羅町を経て、三次でワニ料理と三吉氏の居城・比叡尾山城跡の見学を予定した。
鷹ノ巣山。県央の森公園。この地は広島県のほぼ中央部にあり、登山口近くには、県央の地のモニュメントもある。予想外に狭いアクセス道路を進み、8時20分頃に公園入口の駐車場へ到着。道路の真ん中に駐車スペースがある感じだ。実際にはその左に駐車したが、駐車可能台数は多くない。帰路に、登山口南の林道側登山口に駐車している車を見かけた。登山口には駐車スペースはない。公園駐車場から登山口まで往復20分かかり、鬱陶しい面がある。準備中にシカの群れが近くを走っていた。
9時5分公園駐車場を出発。登山口まで車道を下る。登山口は工事中で、取り付き付近が枝打ちによりルートが隠れていた。私は迷わなかったが、山頂休憩所のノートには迷ったという記事もあった。
9時5分公園駐車場を出発。登山口まで車道を下る。登山口は工事中で、取り付き付近が枝打ちによりルートが隠れていた。私は迷わなかったが、山頂休憩所のノートには迷ったという記事もあった。
鷹ノ巣山。山頂。標高892m。一等三角点。登山道は終始緩い。9時28分鞍部に着き、左折する。道は滑り易いことが登りでもわかるので、下りは注意して降りた。左カーブ地点からはほぼ水平道になり、9時50分に山頂へ到着。休憩所の上に展望台がある。
鷹ノ巣山。山頂。展望台から北。雲海が広がっていた。
鷹ノ巣山。山頂。右の山の下にダム湖が見える。この付近に正式名称「道の駅湖畔の里福富」があり、今朝はそこから眺めていたことになる。
運が良ければ、瀬戸内海・宮島も見えるという展望の素晴らしさはうかがえる。
10時11分下山開始、10時43分公園駐車場へ帰着。予想外に登山を早く終了できて安心した。
運が良ければ、瀬戸内海・宮島も見えるという展望の素晴らしさはうかがえる。
10時11分下山開始、10時43分公園駐車場へ帰着。予想外に登山を早く終了できて安心した。
世羅町大田庄歴史館方面へ向かい、東進。途中、予めチェックしていた「せら香遊ランド」の香遊温泉へ。入浴料500円。私は600円以下の温泉しか基本的に入らない。建物の玄関から延々と歩いて、ようやく温泉の入口に着いた。温泉自体は普通。休憩室でテレビを見ていると暖房を入れてくれた。ヤクルトおばさんがどうですかと言ったので、ヤクルトを買って飲んだ。少々寛いでしまった。世羅町甲山の今高野山の駐車場へ着き、大田庄歴史館を見学した。
大田庄歴史館前の今高野山の参道。歴史館の女性職員が気を利かしてくれたので、館長さんが20分ほど展示解説をしてくれた。律令制の解体と荘園の発生、武士による荘園の解体過程が古代から中世の時代を映し出し、人間の欲望の歴史を現わしていると、近年関心を持っている。大分の田染荘の歴史的景観に感動した。それがここにもあるかと思ったが、それはない。
備後大田庄は平安時代に在地の豪族橘氏により開発された荘園で、のちに平重衡の領地となり、重衡は永万2(1166)年に後白河院に寄進した。平氏滅亡後、院は文治2(1186)年に紀州高野山根本大塔へ寄進した。以後、約270年間大田庄は高野山領として営まれた。ちなみに、尾道は大田庄の年貢米の倉敷地として開発され繁栄した。
元中元(1384)年、守護山名時義が半済を実施、応永9(1402)年、守護山名時熙が年貢を1千石で請負う。明応3(1494)年山内氏が今高野山頂に城を築く。天文9(1540)年、毛利対尼子の兵乱により、今高野山焼失。弘治2(1556)年和智氏(上原氏)が伽藍復興。
紀州高野山に古文書が残り、荘園経営の実態を解明する手掛かりが豊富である。
古城山の中腹から麓にかけ、今高野山の伽藍が建てられた。麓から古城山山頂に天守閣が見えたので、登ることにした。天守閣風の展望台は平日は内部に立ち入れないとのことだった。
備後大田庄は平安時代に在地の豪族橘氏により開発された荘園で、のちに平重衡の領地となり、重衡は永万2(1166)年に後白河院に寄進した。平氏滅亡後、院は文治2(1186)年に紀州高野山根本大塔へ寄進した。以後、約270年間大田庄は高野山領として営まれた。ちなみに、尾道は大田庄の年貢米の倉敷地として開発され繁栄した。
元中元(1384)年、守護山名時義が半済を実施、応永9(1402)年、守護山名時熙が年貢を1千石で請負う。明応3(1494)年山内氏が今高野山頂に城を築く。天文9(1540)年、毛利対尼子の兵乱により、今高野山焼失。弘治2(1556)年和智氏(上原氏)が伽藍復興。
紀州高野山に古文書が残り、荘園経営の実態を解明する手掛かりが豊富である。
古城山の中腹から麓にかけ、今高野山の伽藍が建てられた。麓から古城山山頂に天守閣が見えたので、登ることにした。天守閣風の展望台は平日は内部に立ち入れないとのことだった。
今高野山城跡北端から眺める世羅町甲山地区。かなりの急坂を上り山頂台地に至り、三の丸跡に当たる北端の復古天守閣風展望台付近に着き、甲山地区を見下ろす。西から来て、山間部を抜けると、意外な広さの盆地に驚いた。
今高野山城跡北端から眺める世羅町甲山地区。北西方面。これだけ平地があれば、荘園が成り立つと思われた。
甲山防空監視哨の跡。太平洋戦争時代、展望台の手前に建設された。
今高野山城の本丸へという標識に従い、頂上台地を南に100mほど進むと、奇岩の周辺に本丸跡という看板があった。
今高野山城の本丸へという標識に従い、頂上台地を南に100mほど進むと、奇岩の周辺に本丸跡という看板があった。
今高野山城。本丸跡。戦国時代、山内氏を追い出し、今高野山城に拠ってこの地を支配したのは三次の国衆和智氏一族の上原氏であった。上原豊将は毛利元就と結んで備後における地位を高め、その子元将の妻には毛利元就の娘を迎えた。織田信長が中国を攻略すると、元将は毛利方として備中高松城に出陣した。しかし、元将は羽柴秀吉の軍師黒田官兵衛の調略により寝返ってしまう。直後に本能寺の変が起き、両者が休戦すると、元将は失脚して京都へ逐電、上原氏は滅んだ。
山頂から下り、今高野山の伽藍を見学する。
山頂から下り、今高野山の伽藍を見学する。
今高野山。丹生神社。高野丹生明神が勧請された神社。この右側に登山道が続く。
今高野山。龍華寺は元は十二子院の一つであったが、今は本寺とされる。
今高野山。龍華寺の下には石造の太鼓橋がある。右に丹生神社がる境内の中心地。
今高野山。龍華寺下の石造の太鼓橋。右には滝がある。
今高野山。安楽院跡に立つ粟島神社鳥居。南北朝時代の作。高さ2,18mの石鳥居で。柱に「ころび」がなく直立した古式のものである。右側の柱の裏に康暦2(1380)年の刻銘がある。
見学を終え、三次市へ向かう。
見学を終え、三次市へ向かう。
今高野山・古城山を北から眺める。
吉舎を経て、三次市の比叡尾山城跡へ向かった。その記録は三次市の項に掲載。
翌日は府中市上下町へ。
吉舎を経て、三次市の比叡尾山城跡へ向かった。その記録は三次市の項に掲載。
翌日は府中市上下町へ。