佛通寺。佛殿と大方丈。三原市。平成25年11月2日(土)。府中市上下町を12時30分過ぎに出て、三原市の佛通寺へ向かった。北西から狭い道を進むと、佛通寺の裏側から進入する格好になり、13時30分過ぎに駐車場へ到着。佛通寺は紅葉の名所で内部公開も数日後に控えていた。
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は応永4(1397)年沼田高山城主小早川春平により禅僧愚中周及を迎え仏通寺川沿いに創建された。小早川氏一族の帰依を受けて寺勢は隆昌し,最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後は荒廃,小早川隆景の治世になり やや再興したが,次第に当時の面影を失ったものの、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。
イヌマキの大木の際の巨蟒(きょもう)橋を渡ると山門・法堂・本堂・庫裡等の建物がある。左の佛殿は文化5(1808)年に再建された佛通寺の中心の法堂で須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。右の大方丈は佛通寺の本堂で、儀式法要、法話説法の場である。
臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は応永4(1397)年沼田高山城主小早川春平により禅僧愚中周及を迎え仏通寺川沿いに創建された。小早川氏一族の帰依を受けて寺勢は隆昌し,最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後は荒廃,小早川隆景の治世になり やや再興したが,次第に当時の面影を失ったものの、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。
イヌマキの大木の際の巨蟒(きょもう)橋を渡ると山門・法堂・本堂・庫裡等の建物がある。左の佛殿は文化5(1808)年に再建された佛通寺の中心の法堂で須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。右の大方丈は佛通寺の本堂で、儀式法要、法話説法の場である。
佛通寺。重文地蔵堂と開山堂。重文地蔵堂は本堂などの伽藍とは対岸の門から杉木立の長い石段を登った台地にある。石段がロープで閉じられていたので、庫裡に戻って尋ねると、数日後の行事準備のためなので、横から入って下さいとのこと。
地蔵堂は応永13(1406)年の建築で,創建当時の唯一の建物。様式は折衷様、宝形造り、本瓦葺(もとは茅葺)。桁行三間内部に純禅宗様の須弥壇を持つ小規模な禅宗様の仏殿である。小早川春平の妻松岩尼が創建した含暉院の仏殿として建立された。中には木造地蔵菩薩坐像が安置されている。
右の開山堂はもとは地蔵堂の後にあった書院が移され開山堂と改称された建物。
地蔵堂は応永13(1406)年の建築で,創建当時の唯一の建物。様式は折衷様、宝形造り、本瓦葺(もとは茅葺)。桁行三間内部に純禅宗様の須弥壇を持つ小規模な禅宗様の仏殿である。小早川春平の妻松岩尼が創建した含暉院の仏殿として建立された。中には木造地蔵菩薩坐像が安置されている。
右の開山堂はもとは地蔵堂の後にあった書院が移され開山堂と改称された建物。
佛通寺。多宝塔。地蔵堂脇の高所に立つ。昭和初期の建築で、軒周辺の材料に反りをもたせ、整った塔姿が特徴の近代の多宝塔。
佛通寺。多宝塔から見下ろす地蔵堂と開山堂。
佛通寺。多宝塔から見下ろす佛通寺の中心伽藍。
佛通寺。地蔵堂から下る途中で、佛通寺左背後の山肌に「尊」の字が浮き彫りされているのを見つけた。
14時を過ぎ、東南の本郷地区にある沼田小早川氏の居城、高山城跡・新高山城跡へ向かう。
14時を過ぎ、東南の本郷地区にある沼田小早川氏の居城、高山城跡・新高山城跡へ向かう。
高山城跡。国史跡。南登城口。天理教分教会近く。高山城跡は、沼田(ぬた)川の東岸にあり、対岸の新高山城とともに沼田小早川氏の居城であった。
国史跡の城跡なので、案内看板くらいあるだろうと事前にアクセスを調べなかったのが、大間違い。本来は北東側に登城口がある。佛通寺から本郷へ向かった道路の右側に相当するが気がつかなかった。情報は本郷駅の北に城跡があるということだけ。本郷駅周辺に看板がないので、道路が山に迫った北西側まで探索してみたが、道路は閉じていた。仕方なく、南側に戻り、住宅街の最高所付近を探索。たまたま天理教分教会へ車で来た人に尋ねると、ここが城へ登る道だと答えてくれた。14時40分頃、付近に路駐して南斜面を登る。崖沿いに錆びた鎖が掛けられた斜面を登ると、南東端の尾根に着く。北西へ尾根道を辿ると、イワオ丸に出た。
国史跡の城跡なので、案内看板くらいあるだろうと事前にアクセスを調べなかったのが、大間違い。本来は北東側に登城口がある。佛通寺から本郷へ向かった道路の右側に相当するが気がつかなかった。情報は本郷駅の北に城跡があるということだけ。本郷駅周辺に看板がないので、道路が山に迫った北西側まで探索してみたが、道路は閉じていた。仕方なく、南側に戻り、住宅街の最高所付近を探索。たまたま天理教分教会へ車で来た人に尋ねると、ここが城へ登る道だと答えてくれた。14時40分頃、付近に路駐して南斜面を登る。崖沿いに錆びた鎖が掛けられた斜面を登ると、南東端の尾根に着く。北西へ尾根道を辿ると、イワオ丸に出た。
高山城跡。沼田川の西岸にある新高山城山頂から東に望む高山城跡。火山の外輪山のような印象を受ける山頂台地は広大で、今まで登った山城の中での有数の規模で感動した。ネットで見ると、南登山口から登った人は北の本丸方面への道が分からなかったという人が多い。私も諦めそうになったが、山勘から何とか、道を発見でき、北の郭群を見学できたために、一層印象的な山城となった。おかげで、登城アクセスの探索を含め、1時間30分近く時間を消費することになったが。
高山城跡。反対側の北東登城口にある案内図。高山城跡は標高190m、広さ16haで、北西から東南方向に延びる谷をはさんで2区画に分かれ、北の尾根に本丸・二の丸・北の丸。南の尾根に西丸・イワオ丸・権現丸などの郭が残っている。
高山城跡と新高山城跡。沼田川の東岸(右)に高山城跡。西岸に新高山城跡。
相模の後家人土肥実平とその子遠平は、源頼朝のもとで平家討伐に功績を挙げ、平氏方として滅んだ沼田氏の所領蓮華王院領沼田荘の地頭職を安堵された。遠平の孫茂平は、本拠をこの地に移して小早川氏を称し、拠点としたのが高山城である。
茂平は承久の乱で戦功を挙げて沼田荘の西にある都宇・竹原両荘を与えられた。茂平の嫡子雅平が沼田荘を、雅平の弟政景が都宇・竹原荘を継ぎ、それぞれ沼田小早川・竹原小早川氏を称した。惣領家の沼田小早川氏と木村城を居城とする庶子家の竹原小早川氏は、応仁の乱以降対立を繰り返した。
天文10(1541)年、竹原小早川家の当主小早川興景が継嗣なく早世したため、毛利元就の三男徳寿丸(小早川隆景)を養子に迎えた。隆景は天文13年同家の当主となる。一方、沼田小早川家の当主小早川繁平は若年のうえ病弱であったので、隠居に追い込まれ、天文19年隆景が沼田小早川家をも継ぐこととなり、両家は統合された。 隆景は天文21(1552)年対岸の副塁としていた砦を修築して新高山城を築き、約45年間本拠とした。
相模の後家人土肥実平とその子遠平は、源頼朝のもとで平家討伐に功績を挙げ、平氏方として滅んだ沼田氏の所領蓮華王院領沼田荘の地頭職を安堵された。遠平の孫茂平は、本拠をこの地に移して小早川氏を称し、拠点としたのが高山城である。
茂平は承久の乱で戦功を挙げて沼田荘の西にある都宇・竹原両荘を与えられた。茂平の嫡子雅平が沼田荘を、雅平の弟政景が都宇・竹原荘を継ぎ、それぞれ沼田小早川・竹原小早川氏を称した。惣領家の沼田小早川氏と木村城を居城とする庶子家の竹原小早川氏は、応仁の乱以降対立を繰り返した。
天文10(1541)年、竹原小早川家の当主小早川興景が継嗣なく早世したため、毛利元就の三男徳寿丸(小早川隆景)を養子に迎えた。隆景は天文13年同家の当主となる。一方、沼田小早川家の当主小早川繁平は若年のうえ病弱であったので、隠居に追い込まれ、天文19年隆景が沼田小早川家をも継ぐこととなり、両家は統合された。 隆景は天文21(1552)年対岸の副塁としていた砦を修築して新高山城を築き、約45年間本拠とした。
高山城跡。イワオ丸。大岩がある。
高山城跡。イワオ丸。南の本郷駅方面を見下ろす。沼田川が流れる田園地帯が想像できる。
高山城跡。イワオ丸。広い郭の中央に井戸らしき窪みがあった。北に高い地点を望見できたので本丸方面だと直感し、郭の北西端に行ったが、雑木・雑草に覆われて、とても道らしき道はなかった。
半ば諦めて、道を引き返して南の郭群を見学することにした。
半ば諦めて、道を引き返して南の郭群を見学することにした。
高山城跡。イワオ丸と西丸の間の堀切。
高山城跡。西丸から西のイワオ丸への切岸群。
高山城跡。イワオ丸と西丸の間の堀切の先に、北の本丸方面への踏み跡を発見する。
馬場跡と思われる竹林の間を抜け、台地の南を東へ進む。
馬場跡と思われる竹林の間を抜け、台地の南を東へ進む。
高山城跡。台地の東端に本丸へ登る指標を発見。
高山城跡。本丸跡。
高山城跡。本丸跡周辺の石積み。
高山城跡。本丸跡周辺の石積み。
北西方向への道を進む。
北西方向への道を進む。
高山城跡。二の丸跡。
高山城跡。北の丸跡。郭はいずれも広い。さらに北西へ進むと、北側の平地が望まれた。北東へ下る道があったが、忠実に往路を帰ることにした。南郭群に比べ、北郭群の標識の多さと整備された道の状況に違和感を覚えた。今から思えば。北西登城口からがノーマルな見学路ということだった。
高山城跡。本丸南西端からイワオ丸方向への道。竹林や樹木で覆われている。右側は南北尾根の中間にある谷地の馬場のようだ。
15時40分頃に南登城口へ下山。新高山城跡へ向かった。
15時40分頃に南登城口へ下山。新高山城跡へ向かった。
新高山城跡。国史跡。高山城跡と違って、予想通り格段と分かりやすい。
新高山は標高197.6m、城の縄張りは東西400mで本丸,中の丸,西の丸,北の丸,釣井の段,鐘の段,番所跡など中世から近世への移行期の特徴を保っているといわれる。
15時50分頃から登り、20分ほどで本丸の先にある山頂の詰めの丸に到着。途中、子供たちや家族連れ多数に遭遇した。
新高山は標高197.6m、城の縄張りは東西400mで本丸,中の丸,西の丸,北の丸,釣井の段,鐘の段,番所跡など中世から近世への移行期の特徴を保っているといわれる。
15時50分頃から登り、20分ほどで本丸の先にある山頂の詰めの丸に到着。途中、子供たちや家族連れ多数に遭遇した。
新高山城跡。山頂の詰めの丸跡。東には高山城跡を望み、南に本郷地区を見下ろす。往時は見張櫓が置かれたという。音声説明機が設置されていたので、ボタンを押して説明を聞いた。
新高山城跡。山頂の詰めの丸から沼田川と三原市街地方向を見下ろす。当時は新高山城下まで瀬戸内海が深く弯入して山の麓に舟の発着場もあったという。しかし、小早川隆景は小早川水軍の差配の効率的な運用を高めるため、本拠を河口の三原城に移転したと思われる。
新高山城跡。山頂の詰めの丸跡。頂上高所には石鎚権現の碑や磨崖仏があちこちにある。
新高山城跡。本丸から山頂の詰めの丸跡方面。本丸は山頂尾根を四段に削平した 東西125mに及ぶ広大な郭である。
新高山城跡。大手門跡。登城道とは反対側の北へ下りていた。
新高山城跡。本丸跡の石垣。三原城修造の際,この城の石垣の大石を残らず三原に運んだといわれているにもかかわらず,まだ各所に石垣の一部が残存している。
城跡には釣井の段、鐘の段などの櫓跡や小早川家の菩提寺であった匡真寺跡が残存している。
本丸から中の丸、鐘の段や番所跡など往路を忠実に下山した。
16時30分に下山。
このあと、国史跡の横見廃寺跡・御年代古墳、沼田小早川家の墓所・米山寺を見学したのち、道の駅「みはら神明の里」へ向かった。
城跡には釣井の段、鐘の段などの櫓跡や小早川家の菩提寺であった匡真寺跡が残存している。
本丸から中の丸、鐘の段や番所跡など往路を忠実に下山した。
16時30分に下山。
このあと、国史跡の横見廃寺跡・御年代古墳、沼田小早川家の墓所・米山寺を見学したのち、道の駅「みはら神明の里」へ向かった。