臨済宗佛通寺派大本山佛通寺は応永4(1397)年沼田高山城主小早川春平により禅僧愚中周及を迎え仏通寺川沿いに創建された。小早川氏一族の帰依を受けて寺勢は隆昌し,最盛期には 山内の塔中88ヵ寺,西日本に末寺約3千ヵ寺を数えるに到った。
しかし,応仁の乱の後は荒廃,小早川隆景の治世になり やや再興したが,次第に当時の面影を失ったものの、参禅道場をもつ西日本唯一の大本山として今日に到っている。
イヌマキの大木の際の巨蟒(きょもう)橋を渡ると山門・法堂・本堂・庫裡等の建物がある。左の佛殿は文化5(1808)年に再建された佛通寺の中心の法堂で須彌壇上には釈迦三尊像を祀る。右の大方丈は佛通寺の本堂で、儀式法要、法話説法の場である。
地蔵堂は応永13(1406)年の建築で,創建当時の唯一の建物。様式は折衷様、宝形造り、本瓦葺(もとは茅葺)。桁行三間内部に純禅宗様の須弥壇を持つ小規模な禅宗様の仏殿である。小早川春平の妻松岩尼が創建した含暉院の仏殿として建立された。中には木造地蔵菩薩坐像が安置されている。
右の開山堂はもとは地蔵堂の後にあった書院が移され開山堂と改称された建物。
14時を過ぎ、東南の本郷地区にある沼田小早川氏の居城、高山城跡・新高山城跡へ向かう。
国史跡の城跡なので、案内看板くらいあるだろうと事前にアクセスを調べなかったのが、大間違い。本来は北東側に登城口がある。佛通寺から本郷へ向かった道路の右側に相当するが気がつかなかった。情報は本郷駅の北に城跡があるということだけ。本郷駅周辺に看板がないので、道路が山に迫った北西側まで探索してみたが、道路は閉じていた。仕方なく、南側に戻り、住宅街の最高所付近を探索。たまたま天理教分教会へ車で来た人に尋ねると、ここが城へ登る道だと答えてくれた。14時40分頃、付近に路駐して南斜面を登る。崖沿いに錆びた鎖が掛けられた斜面を登ると、南東端の尾根に着く。北西へ尾根道を辿ると、イワオ丸に出た。
相模の後家人土肥実平とその子遠平は、源頼朝のもとで平家討伐に功績を挙げ、平氏方として滅んだ沼田氏の所領蓮華王院領沼田荘の地頭職を安堵された。遠平の孫茂平は、本拠をこの地に移して小早川氏を称し、拠点としたのが高山城である。
茂平は承久の乱で戦功を挙げて沼田荘の西にある都宇・竹原両荘を与えられた。茂平の嫡子雅平が沼田荘を、雅平の弟政景が都宇・竹原荘を継ぎ、それぞれ沼田小早川・竹原小早川氏を称した。惣領家の沼田小早川氏と木村城を居城とする庶子家の竹原小早川氏は、応仁の乱以降対立を繰り返した。
天文10(1541)年、竹原小早川家の当主小早川興景が継嗣なく早世したため、毛利元就の三男徳寿丸(小早川隆景)を養子に迎えた。隆景は天文13年同家の当主となる。一方、沼田小早川家の当主小早川繁平は若年のうえ病弱であったので、隠居に追い込まれ、天文19年隆景が沼田小早川家をも継ぐこととなり、両家は統合された。 隆景は天文21(1552)年対岸の副塁としていた砦を修築して新高山城を築き、約45年間本拠とした。
半ば諦めて、道を引き返して南の郭群を見学することにした。
馬場跡と思われる竹林の間を抜け、台地の南を東へ進む。
北西方向への道を進む。
15時40分頃に南登城口へ下山。新高山城跡へ向かった。
新高山は標高197.6m、城の縄張りは東西400mで本丸,中の丸,西の丸,北の丸,釣井の段,鐘の段,番所跡など中世から近世への移行期の特徴を保っているといわれる。
15時50分頃から登り、20分ほどで本丸の先にある山頂の詰めの丸に到着。途中、子供たちや家族連れ多数に遭遇した。
城跡には釣井の段、鐘の段などの櫓跡や小早川家の菩提寺であった匡真寺跡が残存している。
本丸から中の丸、鐘の段や番所跡など往路を忠実に下山した。
16時30分に下山。
このあと、国史跡の横見廃寺跡・御年代古墳、沼田小早川家の墓所・米山寺を見学したのち、道の駅「みはら神明の里」へ向かった。