出土した瓦などから白鳳期の造営とされ、広島県内で最古の寺院と考えられている。発掘調査で、講堂、塔、築地などの遺構がみつかり、寺域は東西約100m,南北80m前後、西向きの特異な伽藍配置と推定されている。
出土した軒丸瓦のうち、単弁の蓮華文は火炎文といわれる毛羽つきの文様で、奈良県の山田寺・檜隈寺などに共通する文様である。大和若草伽藍跡などで用いられた六弁の忍冬文唐草文の軒丸瓦も出土し、畿内の有力勢力との密接なつながりの中で建立されたこともうかがえ。近隣の梅木平古墳・御年代古墳との関連も注目される。
すっかり暗くなった国道2号線を東に進み、道の駅「みはら神明の里」へ向かった。
八天堂の代名詞でもある「くりーむパン カスタード」はあっさりシンプルなカスタードくりーむに最高級の純生クリームを合わせたプレーンな定番で、エッセンス、リキュール類を使用せず、素材本来の自然な味わいを大切に、ふんわか・とろりんとした口どけが持ち味というだけはあり、普通にいうパンではない。1点200円と高いので一つしか購入しなかった。
三原城は以前見学しているので、小雨の中、市内の宗光寺へ向かった。
山門は小早川隆景が築いた新高山城から移築したと伝えられるが、規模・細部意匠などから、福島氏が現在地に新築した可能性が高い。太い木割の切妻造・本瓦葺の四脚門で、蟇股などに安土桃山時代の豪快な手法がしのばれる。
三原城西北の寺町は高山城・新高山城から引寺された寺々が並んでいる。狭い坂道に迷い込み、最終的には麓を通る西国街道沿いの銀行駐車場に停めた。
府中市へ向かう途中、御調八幡宮へ立ち寄った。
宝亀8(777)年、参議藤原百川が社殿を造営し封戸を割いて社領に当て、また、保元3(1158)、年の官宣旨により石清水八幡宮の別宮となり、八幡庄の鎮守神として、また備後総鎮護の神社として崇信された。
元暦元年(1184)源頼朝の再建、文治年間(1185~89)土肥実平の重修、観応年間(1350~51)足利尊氏の社殿造営を経て、現在の社殿はことごとく近世浅野家により再建された。
天正年間には、豊臣秀吉が三原城に滞在中参拝し、境内に桜樹を手植えしたと伝えられる。
続いて、備後国府の置かれた府中市にある府中市歴史民俗資料館へ向かう。
建物の二階はワンフロアの広い空間で、郡会の議場だったと考えられている。1926年全国の郡役所が廃止され、その後、県の出先機関が入った合同庁舎として長く使用された。市民による保存運動の結果、土生町の造成地に移築保存され、歴史民俗資料館として再利用されている。
館内では、国府跡に関する出土品を中心に考古資料が展示されている。再現した古代衣装も数着展示されている。
国道から芦田川の橋を渡り、南岸の台地上にある資料館へ着いた。隣接施設の祝日イベントのため、駐車場は満車状態だった。入口に別棟の職員に申し出るように記してあったので、職員に申し出ると、1時間余り展示の説明や歴史ガイドをしてくれた。国府跡のこと以外で関心を引いたこともあった。常城という古代山城のこと。「続日本紀」養老3年の条に「備後国安那郡の茨城、葦田郡の常城を停む」という記事がある。常城は府中市本山町七ツ池周辺と推定されている。
市街地の背後にそびえる八ツ尾城跡のこと。永享9(1437)年将軍足利義教と不仲であった弟の大覚寺義昭が出奔し、翌永享10年大和天川で挙兵した。この挙兵は後南朝、比叡山山徒、山名氏・佐々木氏の一部、鎌倉公方足利持氏と連携した大規模なものであった。さらに持氏が関東管領上杉憲実討伐を開始し、永享の乱が勃発した。この頃、備後でも山名満熈が異母弟山名持豊(宗全)の家督相続を不満に思い、大覚寺義昭を擁して備後国府城で挙兵したものの敗れて、満熈の首級が京に届けられて、公家たちの日記に記される事件があった。その備後国府城は守護山名氏と関わりの深い城であった八ツ尾城と考えられている。
職員は多くの資料を渡してくれた。13時過ぎ、館を出る頃に雨が激しくなり、傘を持ってこなかったので、職員は傘を貸してくれて、駐車位置まで一緒に歩いた。
備後国府跡へ向かった。
案内板が元町地区の集会所前に立てられている。北東側に丘陵が迫っている地形である。
このあと、東に車で10分ほどの福山市しんいち歴史民俗博物館へ向かった。