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広島県福山市新市・駅家 しんいち歴史民俗博物館 吉備津神社 大滝の名水 尾市古墳 相方城跡 二子塚古墳  

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福山市しんいち歴史民俗博物館。二子塚古墳出土品。平成25年11月3日(日)後半。府中市から移動。博物館には芦田川下流域駅家・新市地区の考古資料が展示されている。二子塚古墳は墳丘全長68mの前方後円墳で6世紀末から7世紀初頭の築造とされる。近年の発掘調査により、主体部の横穴式石室から馬具類、鉄製武器類、須恵器などが出土した。福山市駅家町中島にあり、翌日現地を見学した。

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福山市しんいち歴史民俗博物館。二子塚古墳出土品。金銅製環頭柄頭。7.8×6.2僂搬膩燭如環内には2体の龍(双龍)がからみあい、それぞれが1個ずつ玉を咥えあっている。このような意匠はほかに知られていない。

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福山市しんいち歴史民俗博物館。尾市古墳模型。新市町常の芦浦地区にあり、一辺約12mの八角形墳である。埋葬施設は花崗岩切石で構築された横口式石槨で、羨道の奥に方向を変えて三基の石槨が十字型に配置された全国的にも珍しい極めて特異な構造をしている。
このあと、尾市古墳などを見学するため北へ向かい、まず備後一宮吉備津神社へ。

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備後一宮吉備津神社。本殿。重文。備後国分立以前の吉備国を治めたとされる大吉備津彦命を主祭神に祀る。吉備国が三国に分離された後の大同元(806)年、吉備国一宮であった吉備津神社より勧請して創建されたと伝えられる。しかし、『延喜式神名帳』に記載がないことから、実際の創建はもっと後であるとする説がある。中世より備後国一宮として崇敬を集め、広大な社領と多くの神人を有し、たびたび近隣の豪族と衝突していたため、貞和2(1346)年には高師泰が備後国守護に神人の横暴を止めるよう命じている。戦国時代には毛利輝元、江戸時代には福島氏、水野氏より社領の寄進があった。
本殿は慶安元(1648)年、水野勝成による造営。桁行七間、梁間四間の入母屋造檜皮葺。

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大滝の名水。新市町常芦浦。吉備津神社付近の案内図に尾市古墳近くに記載されているので立ち寄ることにした。標識に従い、南東の丘陵に登る。途中二つの道に分かれ、不安を感じたので、戻って地元の人に尋ねると、どちらも通じているとのこと。グランドと池の横を通り、道なりに進むと、立派な建物があり、中央に取水設備があった。ラドンを含み、右に鉱泉施設がある。
尾市古墳へ向かう。

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尾市古墳。新市町常芦浦地区。古墳の案内板地点に着き、車で行けるところまで行こうと、北東の狭い道を進むと、左の山裾に標識があった。車道はこの地点でUターンは厳しいが、車道の50m先に切り返し可能の空地を見つけ安心した。左の山道を登る。右折してに山頂へ直進すると円墳のような墳丘を発見。

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尾市古墳。灰色は土嚢の色で、一面に覆われている。右の道から墳丘を通り過ぎ、少し高い地点から尾市古墳と南西方向を眺める。雨に煙って見えにくいが、見晴らしは良さそうだ。
墳丘の真上に立つと、真下に開口部が見えたので、近づく。

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尾市古墳。埋葬施設は花崗岩切石で構築された横口式石槨で、羨道の奥に方向をかえて三基の石槨が設置された十字型をしている。石槨と羨道の境には扉石設置のためと見られる加工が施されている。

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尾市古墳。中央奥の石槨を見る。石槨は花崗岩切石の1枚石が巧みに組み合わされて構築されている。石槨の規模は、羨道+中央石槨で長さ6.68m、東石槨+西石槨は長さ4.6mで、中央の石槨は長さ1.68m, 幅1.16, 高さ1.15mの規模である。

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尾市古墳。左の石槨を見る。壁面全体には漆喰が塗られていたとみられ現在でも随所で観察でき、その一部には同心円状の叩き目も認められる。石室全面には敷石が敷かれている。
16時過ぎになり、暗くなりかけ、雨も激しいままだったので、撤収することにした。
道の駅「みつぎ」に向かう。

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相方城跡。芦田川の左。平成25年11月4日(月)。道の駅「みつぎ」で起床。雨も止み、本日は晴天。昨日諦めた、相方(さがた)城跡へ向かう。府中市街地を抜けたところでコインランドリーを発見。1時間余り立ち寄り、登山用衣服一式を洗濯した。
芦田川の橋を渡り、相方城跡の南東から工業団地地区を抜けて、北西へ山道を登ると、相方城跡の頂上台地駐車場に着く。

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相方城跡。駐車場は頂上台地の鞍部にあり、数台分のスペースがある。

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相方城跡。平面図。芦田川南岸に接した標高約190mの東西に長い丘陵(通称城山)上に築かれた山城で、右側の東側郭群と左の西側郭群に分かれている。東側に主郭がある。
この城は戦国時代に芦田川を挟んで反対側にあった亀寿山城を本拠地として備後南部に勢力をもっていた国人領主の宮氏や有地氏により山城として使用されていた。
有地氏が毛利氏によって出雲国に移されると、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備が進み、山頂付近に空堀や曲輪群などの城郭が築かれた。部分的に打込接の総石垣が築かれ、瓦葺の櫓や城門も建造されており、中世城郭から近世城郭への過渡期の山城といわれる。

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相方城跡。西側郭群入口から東側の主郭方面を眺める。

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相方城跡。鞍部から北を望む。中央が亀寿山城跡。右が新市の中心街で、北西の谷間方向に吉備津神社や尾市古墳がある。
城跡からは府中市から神辺までの備後平野を一望することが出来る。相方城跡は山陽道・瀬戸内海筋の情報を即座に集約し、対応できる立地で、毛利氏は天正15~18年の惣国検地ごろから本格的に品治郡に直属の鉄炮隊である中間頭田中四郎右衛門や、飛落・渡両中間家を配置し、彼らを番衆とする直轄城として相方城を築き。つづく文禄・慶長年間の10年をかけて整備したものと考えられる。

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相方城跡。東側の主郭。

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相方城跡。東側の主郭から神辺方面を望む。

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相方城跡。東側の主郭付近の石垣。

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相方城跡。東側の主郭付近の石垣。

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相方城跡。西側郭群から府中市街地を望む。
山を下って東へ進み、福塩線近田駅北の住宅街にある二子塚古墳へ向かった。

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二子塚古墳。国史跡。二子塚古墳は標高50m前後の低丘陵上に所在する前方後円墳で、丘陵南裾には古代山陽道が通る、東西交通の要衝に位置している。

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二子塚古墳。平面図。発掘調査の結果、墳丘長68m、墳丘の周辺には幅1.6〜4m、深さ1.8m程度の周溝が全周し、それを含めた総長は73.4mになり、備後地域を代表する大規模前方後円墳であることが明らかとなった。埋葬施設は前方部と後円部に横穴式石室が1基ずつある
周辺は弥生ヶ丘といわれるように、弥生時代中期から後期にかけての住居跡61棟や古墳27基が確認されている。

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二子塚古墳。後円部の埋葬施設は両袖式で、全長14.9mと吉備有数の規模を誇る。石棺は播磨の竜山石製の組み合わせ式石棺であった。副葬品は須恵器、鉄製武器、馬具とともに、大刀に伴う金銅製双龍環頭柄頭は珍しい意匠で注目された。
副葬品の内容から古墳の築造は、6世紀末から7世紀初頭頃と考えられる。備前・備中地域においては、古墳時代前・中期に巨大な前方後円墳が築造されたのに対し、備後地域ではこの古墳が突如として出現した。玄室内の石棺は畿内地域の前方後円墳などに採用された竜山石を用い、石室構造や出土遺物も畿内地域と関係があったことを示し、7世紀前後のヤマト政権と吉備との政治状況を知ることができる点で、きわめて重要な古墳である。

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二子塚古墳。金銅製双龍環頭柄頭。

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二子塚古墳。後円部から前方部を見る。墳丘中央やや南側に墳丘を削って道が造成されていた。前方部は調査工事用にブルーシートが被せてあった。

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二子塚古墳。周溝跡。
このあと、服部大池へ向かい、駅家地区周辺の福山古墳ロードを見学した。

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