掛迫城跡。福山市駅家地区。平成25年11月4日(月)後半。福山市駅家地区の福山古墳ロードの西端にある二子塚古墳を見学後、古墳ロ-ド案内板のある服部大池へ向かった。案内図を検討すると、東方に掛迫6号古墳と掛迫城跡が隣接して所在するというので、山間の狭い道を進むと、溜池横にある掛迫城跡の入口に着いた。
掛迫城は新市地区の亀寿山城主で備後の一大勢力であった宮氏の一族で宮法成寺氏の居城である。
最後の城主は尼子氏に味方した宮勝国で、天文19 (1550) 年8月大内・毛利連合軍によって滅ぼされた。
掛迫城は新市地区の亀寿山城主で備後の一大勢力であった宮氏の一族で宮法成寺氏の居城である。
最後の城主は尼子氏に味方した宮勝国で、天文19 (1550) 年8月大内・毛利連合軍によって滅ぼされた。
掛迫城跡。南の神辺平野を見下ろす。城は南側を表に築かれており、本丸の標高は100m。駐車地点に戻り、道標に従って、反対方向の掛迫古墳へ歩いていったが、予想外に遠くまで山道を歩かされた。
掛迫第6号古墳。全長約47mの前方後円墳で5世紀初頭の築造とされる。後円部には東西に並列する2基の竪穴式石室が蓋穴を取り除かれた状態で露出する。墳丘中央部の向って右(北)の石室は長さ3.3mで、壮年男子の人骨、だ龍鏡、鉄斧が出土した。向って左の石室は長さ3.8m、内部から人の歯、三角縁神獣鏡、硬玉製勾玉、ガラス製小玉が出土した。この地域では最初の広域首長の墳墓と推定されている。
神辺方面へ東進し、加茂町の石鎚山古墳群へ向かう。
神辺方面へ東進し、加茂町の石鎚山古墳群へ向かう。
石鎚山古墳群第1号古墳。第2号古墳から望む。石鎚山古墳群は,芦田川中流域の加茂川によって形成された扇状地をのぞむ北向きの低丘陵端部に位置し,2基の古墳からなる。
第1号古墳は,直径20m高さ3mの円墳で2基の竪穴式石室がある。第2号古墳は,第1号古墳の南東約20mにあり,直径約16mの円墳で2基の土壙基がある。第1号古墳に見られる列石状葺石や竪穴式石室の構造などから,築造年代は4世紀半ばから後半の時期と推定される。
古墳群は,芦田川中流域に分布する古墳の中では初期に属し、備後南部の地域首長墓の可能性が高い。
加茂が丘団地西端の墓苑に登り口がある。
第1号古墳は,直径20m高さ3mの円墳で2基の竪穴式石室がある。第2号古墳は,第1号古墳の南東約20mにあり,直径約16mの円墳で2基の土壙基がある。第1号古墳に見られる列石状葺石や竪穴式石室の構造などから,築造年代は4世紀半ばから後半の時期と推定される。
古墳群は,芦田川中流域に分布する古墳の中では初期に属し、備後南部の地域首長墓の可能性が高い。
加茂が丘団地西端の墓苑に登り口がある。
石鎚山古墳群第1号古墳。2基の竪穴式石室を有し、中央部にある1号主体部長さ2.8m、幅1mの大きさで石室を覆う天井石は板石を三重にしたもので、その上を拳大の石群で覆うという厳重な造りであった。床面には礫が置かれ、一面に朱が認められた。また石室の外に雨水などを抜く排水溝も設けられていた。内部には木棺に納められていた壮年の男性人骨が残り、二神二獣鏡や玉類などが副葬されていた。2号主体部からは銅製や鉄製の鏃、鉄剣などの武具類が出土した。
東に加茂が丘団地が並ぶ。子供連れの地元民が来ていた。
東に加茂が丘団地が並ぶ。子供連れの地元民が来ていた。
石鎚山古墳群第1号古墳。南西方面には芦田川支流の加茂川によって形成された平野を望む。
南東の神辺方面へ向かう。
南東の神辺方面へ向かう。
神辺城跡。神辺城は神辺平野を見下ろす標高133mの黄葉山に築かれた山城である。南北朝時代以降備後の守護所が置かれ、嘉吉の乱後、守護職を得た山名氏が嘉吉3(1443)年に城を築き守護代を居城させたと伝わるが明らかではない。
史料上の初見は、天文15(1546)年の神辺合戦の頃という。神辺合戦では大内氏方から尼子氏方へ寝返った城主山名(杉原)理興と大内氏・毛利氏が抗争を繰り返したのち、天文18年に落城、理興は出雲に逃げた。大内氏滅亡後、理興は毛利元就に許されて神辺城に復し、毛利氏の部将杉原氏の本拠となったが、天正12(1584)年内訌により毛利氏に討滅された。
その後、毛利氏の備後支配の拠点として直轄城となり、天正19年毛利元就の八男毛利元康が入城した。
関ヶ原の戦い後、福島正則が入封、神辺城には福島正澄が3万石で入り、総石垣を用い多数の櫓と天守を有する近世城郭として整備したとみられる。元和5(1619)年の福島氏改易後は水野勝成が入封した。
水野氏は神辺城では規模が小さく不便であるとして、芦田川河口に福山城を築き神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどした。
黄葉山は古代から神奈備山として信仰され、神辺の地名が生まれたという。古代の山陽道は、神辺平野を西へ横断していたが、中世後期、沿岸部の鞆・尾道が繁栄すると、山陽道も神辺から南下、松永湾岸を通って尾道に抜けるようになり、山陽道の「道上城」として神辺城が築かれる要因となったようだ。
神辺歴史民俗資料館の駐車場が城跡への登城口になっている。背後に見える山の山頂に本丸跡がある。西へ200mほど登ると城跡西端に達する。
史料上の初見は、天文15(1546)年の神辺合戦の頃という。神辺合戦では大内氏方から尼子氏方へ寝返った城主山名(杉原)理興と大内氏・毛利氏が抗争を繰り返したのち、天文18年に落城、理興は出雲に逃げた。大内氏滅亡後、理興は毛利元就に許されて神辺城に復し、毛利氏の部将杉原氏の本拠となったが、天正12(1584)年内訌により毛利氏に討滅された。
その後、毛利氏の備後支配の拠点として直轄城となり、天正19年毛利元就の八男毛利元康が入城した。
関ヶ原の戦い後、福島正則が入封、神辺城には福島正澄が3万石で入り、総石垣を用い多数の櫓と天守を有する近世城郭として整備したとみられる。元和5(1619)年の福島氏改易後は水野勝成が入封した。
水野氏は神辺城では規模が小さく不便であるとして、芦田川河口に福山城を築き神辺城を廃城とした。このとき、建物や石垣の殆どが福山城に転用されるなどした。
黄葉山は古代から神奈備山として信仰され、神辺の地名が生まれたという。古代の山陽道は、神辺平野を西へ横断していたが、中世後期、沿岸部の鞆・尾道が繁栄すると、山陽道も神辺から南下、松永湾岸を通って尾道に抜けるようになり、山陽道の「道上城」として神辺城が築かれる要因となったようだ。
神辺歴史民俗資料館の駐車場が城跡への登城口になっている。背後に見える山の山頂に本丸跡がある。西へ200mほど登ると城跡西端に達する。
神辺城跡。堀切跡。通商毛抜堀跡。駐車場の登城口近くに残る。
神辺城跡。西端の三番櫓跡。西の方角を眺める。直下の神辺駅や神辺平野方面への見晴らしは良い。
神辺城跡。頂上台地東の本丸跡へ向かう。神辺城は山頂に本丸を置き、北尾根と西尾根に曲輪を連ねている。山頂の曲輪群は、標高133mの「甲の丸(つめのまる)」から西方向と北方向に連続して築かれている。規模は山頂から西に伸びる曲輪群の方が大きい。
神辺城跡。本丸跡。山頂の甲の丸には福山城に移建された3階建の「神辺一番櫓」、2階建の「塩櫓」と「玉櫓」が建っていたという。発掘調査により福島時代には瓦葺の建物が建っていたことが判明している。
神辺城跡。井戸跡。本丸跡から北へ少し下った地点にある。
駐車場へ戻り、東側の山頂部にある城郭風建築物の福山市神辺歴史民俗資料館を見学。
その後、山を下り神辺本陣へ。
駐車場へ戻り、東側の山頂部にある城郭風建築物の福山市神辺歴史民俗資料館を見学。
その後、山を下り神辺本陣へ。
神辺本陣。江戸時代の神辺は近世山陽道・石州銀山道などの主要道が交わる交通の要所で、備中国矢掛と備後国今津(福山市松永町)の中間に位置する宿場町として栄えた。
三日市の西本陣と七日市の東本陣があり、当時「神辺駅西本陣」と呼ばれた西本陣が現存する。
西本陣の規模は敷地約4500屐棟数27、土蔵6、湯殿6、門3、間数21、畳数200余枚であった。安政2(1855)年建築の正門を中心に、防備のための木造瓦葺き黒塗りの土塀が街道沿いに屋敷を囲んでいる。
三日市の西本陣と七日市の東本陣があり、当時「神辺駅西本陣」と呼ばれた西本陣が現存する。
西本陣の規模は敷地約4500屐棟数27、土蔵6、湯殿6、門3、間数21、畳数200余枚であった。安政2(1855)年建築の正門を中心に、防備のための木造瓦葺き黒塗りの土塀が街道沿いに屋敷を囲んでいる。
神辺本陣。延享5(1748)年に建替えられたとされる母屋をはじめ、馬屋や物見櫓にいたるまで保存されている。正門を入ると正面には本陣座敷の入母屋式台付きの玄関の間がある。御成りの間、二の間等と畳の部屋が続く。
神辺本陣。札の間には投宿時に門前に掲げた大名の関札が多数かけられている。本日は休日なので、常駐している観光ボランティアの説明があった。
廉塾ならびに菅茶山旧宅へ向かう。
廉塾ならびに菅茶山旧宅へ向かう。
廉塾ならびに菅茶山旧宅。国特別史跡。近世山陽道に面した表門。廉塾(れんじゅく)は天明元(1781)年、菅茶山が34歳の時に地元の神辺に開設した私塾で、はじめは黄葉山にちなみ「黄葉夕陽村舎と名付けた。寛政8(1796)年茶山は田畑を添えて塾を福山藩に献上したいと申し出、福山藩の郷塾となった。
廉塾は文化・文政期に最盛期を迎え、入舎生数は330名余りで年に20名余りが在籍していたと推定される。門下生には、のちに塾頭となった頼山陽、北条霞亭らがいる。
廉塾は文化・文政期に最盛期を迎え、入舎生数は330名余りで年に20名余りが在籍していたと推定される。門下生には、のちに塾頭となった頼山陽、北条霞亭らがいる。
廉塾。表門と施設に入るための中門の間の菜園で野菜を作っていた。寮生たちはこの畑で野菜を育て、自給していたといわれる。農作業をしている男性がいて、保存会の会長であった。左は茶畑。
廉塾。防火用水を兼ねた養魚池では鯉を養殖し、来客に振る舞うこともあったという。茶山筆の石標が残っている。
廉塾。中門の手前には「槐寮」と名づけられた塾生の寮舎が残る。当時は他に南寮・敬寮を含め3棟の寮舎が設けられ、塾生たちが寝泊りしていた。
廉塾。中門をくぐると、手前が講堂で、奥に菅茶山旧宅が見える。講堂は桟瓦葺平屋建てで、6畳2室と8畳1室の連なる3室を襖を外して使用していた。
講堂の前にはすぐ北の高屋川から水を引いた水路が流れ、塾生はここで筆や硯などを洗ったといわれている。
講堂の前にはすぐ北の高屋川から水を引いた水路が流れ、塾生はここで筆や硯などを洗ったといわれている。
廉塾。濡れ縁は板と竹を組み合わせたデザイン。
廉塾。講堂前にある手水鉢。円形と方形をあわせた手水鉢(ちょうずばち)を設置し、これは「水が器の形に従うように、人も環境や教育、交流などによって善く悪くもなる」ということを示し教えている。
観光ボランティアが随時説明してくれた。休日なので見学者は多い。
市街地の北にある菅茶山記念館へ。
観光ボランティアが随時説明してくれた。休日なので見学者は多い。
市街地の北にある菅茶山記念館へ。
菅茶山記念館。入場無料。コンクリートの外観の変わった建物。菅茶山やゆかりの文人たちの著作や書画などが展示されている。特別展では飢饉に備えて「義倉」を備える運動の発起人となった豪農の河相周兵衛らと菅茶山との交流を紹介する書簡などが展示されていた。
北東にある備後国分寺跡へ。
北東にある備後国分寺跡へ。
備後国分寺跡。南門跡。現国分寺の南側一帯が聖武天皇の発願になる備後国分寺の跡である。創建時の備後国分寺は、発掘により、東西約180mの寺域であったと判明している。また、古代山陽道に面して南門があり、それを入ると東に塔、西に金堂、北に講堂を配置する法起寺式伽藍配置であることが分かった。
手前の道路は車の往来が激しかった。参道の途中には駐車できるほどの空き地がある。
福山市街地方面へ向かった。
手前の道路は車の往来が激しかった。参道の途中には駐車できるほどの空き地がある。
福山市街地方面へ向かった。
宮の前廃寺跡。国史跡。山陽自動車道福山東IC南交差点近くの八幡神社のある丘陵南斜面中腹に位置する奈良時代の寺院跡である。7世紀末に創建され平安時代まで存続したとみられる。
東に塔、西に金堂を配したいわゆる法起寺式の伽藍で、塔跡は一辺12.7m、、金堂跡は東西24.9m、南北14mであることが確認された。いずれも塼積みの基壇でその残存状況も良好である。
出土遺物には、軒瓦・塼仏のほか「紀臣和古女」「紀臣石女」「栗栖君」「粟麻呂」などの文字瓦がみられる。当時この辺りは海に面しており、「日本霊異記」に記された備後国深津市に比定されている。
東に塔、西に金堂を配したいわゆる法起寺式の伽藍で、塔跡は一辺12.7m、、金堂跡は東西24.9m、南北14mであることが確認された。いずれも塼積みの基壇でその残存状況も良好である。
出土遺物には、軒瓦・塼仏のほか「紀臣和古女」「紀臣石女」「栗栖君」「粟麻呂」などの文字瓦がみられる。当時この辺りは海に面しており、「日本霊異記」に記された備後国深津市に比定されている。
明王院。本堂。国宝。鎌倉時代末期の元応3(1321)年の建築で、和様を中心に大仏様、禅宗様を加えた折衷様式。
16時40分頃に駐車場へ到着。観光客もほとんどいなくなっていた。
福山には、2~30年ほど前に、福山城・県立歴史博物館・鞆の浦などを訪れている。明王院も見学したはずなのだが記憶は薄れた。国宝なので、立ち寄ってみた。
16時40分頃に駐車場へ到着。観光客もほとんどいなくなっていた。
福山には、2~30年ほど前に、福山城・県立歴史博物館・鞆の浦などを訪れている。明王院も見学したはずなのだが記憶は薄れた。国宝なので、立ち寄ってみた。
明王院。五重塔。国宝。貞和4(1348)年に庶民の寄進浄財によって建てられたもので、南北朝時代を代表する和様建築。
17時になり、道の駅「ぬまくま」へ向かった。
17時になり、道の駅「ぬまくま」へ向かった。